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2024/04
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▪︎アイちゃん(橘 アイ)
生まれつき悪魔や霊的なものに好かれる体質で、友人などはほとんどいない小柄な女子高校生。16歳。
男っぽい言葉遣いを好む。大人びている。

▪︎女(コンスタンティア)
二メートルはあろうかという、大きな体をした女の悪魔。赤い角が頭に生えていて、子宮がくりぬかれている。
アイちゃんのことが大好き。

ここから読むといいです⇩
(1話)
アイちゃんと緑の女
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 僕は、日本が安全な国であるということを知っている。戦争もなければ、死に至る流行病もない。地震は心配だけれど、それは日常ではない。死が、日常に潜んでいない国だと知っている。日常の死は、自らの選択であることも。
 白いシーツがかかっている、まるで病院に置いてあるみたいな質素なベッドの中だけが、僕を安心へ誘ってくれる。やわらかいマットレスに、羽毛ぶとん。いくつもの涙のしみはいつ消えていくのだろう。ベッドの影で、白くないベッドの影の中では何も考えないことにしている。だって、意味がないから。自分の生まれや、身体のつくりを呪っても、嘆いても、改善されることはない。なら、つらくなることは考えないで、汚い大人の手に引かれていくだけだ。それが今の僕にとって、一番楽に生きられるみたいだから。その間、頭の中は真っ白であまり覚えていない。いつもの、安心できる白いシーツを脳に貼り付けている。正しい色は、いつだって白い。
 幼い頃から、不思議な声が聞こえていた。誰なのか、とにかく、男であって、威厳のあるような、そのような声がときたま聞こえる。それはまれにで、いつもは、優しい、男か女かわからない誰かが呼びかけてきている。僕の苦しみを直接解決はできないけれど、それでも、どうにかいい方向へ持っていこうとしてくれる。ただ、色のついたベッドの中ではすべての声が途切れる。いや、僕が拒否しているのか?
 わからないんだ、なにもかも。
 周りから見れば、僕らの三人家族はふつうの家族に見えるだろう。僕から見てもお母さんは美人で足が細くって、エステなんかにもよく行ってるらしく、とても若く見える。お父さんも、きりりとした顔が男前で、毎朝ネクタイをしめる姿は幼い僕の憧れだった。大手の企業に勤めている。僕は都内の進学校に通っていて、成績はいつもだいたい学年で五位以内。よく、近所のおばさんに言われたものだった。あんたみたいな息子が居てくれたらいいのにと。僕の身体を見て、本当にそう言えるか試してみたいなんて、思ったりする。
 かりそめの、はりぼての、愛のない家族。日常だった。
 お父さんは忙しく、帰ってくるのはいつも日付の変わる直前だった。家族の金銭管理はお父さんがしている。お父さんが、お母さんに生活費を渡して、後は今後のために貯金しているんだって。僕は日本のトップクラスの大学にだって行けるくらいの成績だったから、そのためにもきっとお金を貯めていてくれてたんだろうな。
 僕のお母さんは、何より、お父さんが大好きだ。そのためにエステに行くし、ヨガだってして、細く綺麗な身体を維持して、高い化粧品を買い漁り、綺麗な服を探して昼間は出かけているみたい。全ては、お父さんに目を向けてもらいたいからだ。
 休みの日だってお父さんは、ノートパソコンとにらめっこしている。お母さんはにこにこして、その様子を、家事をしながら見ている。会話はない。お父さんと、僕にも会話はあまりない。テストがあるたび、今回はどうだったか聞く、それくらい。
 お父さんが、お母さんの容姿を褒めるところを見たことがない。と、いうか、お父さんはお母さんのことを見ていない。きっと今は細くなくても、綺麗でなくても、家事をして僕の面倒を見ていれば、どんなだっていいのだ。だから、どれだけお母さんが綺麗になろうが、そのためのお金がどこから出ているか、知らないのだ。借金でもしてくれてたほうが、良かったのに。どうしてその選択をしたのかは、それは僕の身体を呪うしかない。
 学校から帰ってくると、玄関に見慣れた、嫌な革靴があるのに気づいてしまった。荷物を降ろしに部屋に入ろうとすると、すぐお母さんに捕まってしまう。
「シヅル、おかえり。佐々山さんって、お母さんのお友達がいらっしゃってるから、ご挨拶なさいな」
 そう言って、手を握られて居間に連れられる。食卓テーブルに、お茶を飲んでいる、すこし肥えたおじさんがいた。スーツ姿で、皮のかばんを置いていて、仕事帰りらしい。
「どうも……」
 弱々しく、声をかける。かけなければならない。その男性は、僕を待ちわびていたようで。
「シヅルくん、おかえりなさい。元気かな?」
「まあ、そこそこです……」
 目をそらして、下げていた鞄の紐をギュッと、まるで命綱に見立ててるみたいで、馬鹿らしくなるくらいに、握りしめる。これが、僕の主張できる最大限の抵抗。察してもらえることはないけれど。
「じゃあ、お出かけしてくるから。二時間くらいで帰ってくるからね。シヅル、ちゃんとお勉強見てもらうのよ」
 そう言って、ああ、今日はどこに行くのかな。デパートかな。
「うん、いってらっしゃい。早く帰ってきてね……」
 助けを求めても意味がないもの。でも、かすかに見えるような、親の責任という希望をたまに信じてみることがある。僕は愛されてここに産まれてきたはずだし、この人は自分の腹を痛めて僕を産み、大きくしたのだから。今日も、玄関の向こうから、軽やかなヒールの音が聞こえる。ねえ、そうやって暮らしてるのはとっても楽しいけど、それ以上に苦しいんだろうね、お母さん。
 ヒールの音が消えていくまで、僕は玄関をじっと見ていた。命綱を握って。
「シヅル、シヅルよ、今日は、おまえの運命の日になるであろう。私の運命の息子よ、耐えなさい。さすれば、おまえの元に、救いの手があるだろう」
 はっとした。頭に直接呼びかけてくる、威厳のある男の声。救い。誰が? だれが? こちらから問うことはできない。問うても、答えが返ってきたことがないのに。
「私の使いを」
 はじめてだった、はじめて、頭の中で聞こえる声から、答えがあった。何が起きるのだろう。僕にとっての非日常が、これからあるらしい。この声が間違ったことはない。今日、ぼくは、救われるのだ。
 その精神のやりとりを破ったのは、佐々山さんである。手を握って、脱衣所まで引っ張るのだ。佐々山さんは、お母さんが募集する僕のお客さんだろう。勉強なんて、見てもらったことがない。僕は、基本的にこういったやりとりをするのは好きではない。好きな人がいるかはわからない。 コンプレックスで埋め尽くされた罪の身体に、さらに傷や痛みを上乗せするようなことだもの。そして、それは何度も繰り返されたので、わかっているし、僕は仕方ないと諦めるしかなかった。
 ブレザーについた校章が、きらりと輝く。これをつけていれば、未来の明るい高校生のしるし。頭が良くて、将来は国内トップクラスの大学を狙うのが当たり前のしるし。クラスのみんなは、今は塾にでも行って、また勉強してるのかな。脱衣所の大きな鏡。髪は、女の子のセミロングくらいあって、ふだんは後ろでまとめている。たまに、クラスの女の子がそういったものをプレゼントしてくれることがある。それを解いて、洗面台の隅に置いた。ふわっと、髪が広がる。
 シャツのボタンをしぶしぶと外そうとすると、佐々山さんの大きくでっぷりとした分厚い手が僕の背後からぬっと伸びてきて、僕の代わりに外していく。それを、鏡の前で見ている。醜い顔をしているふたりがいるのに、その背後に光が見えた。
 錯覚か、幻覚か、妄想か、事実か。救いか。ねえ、助けてくれるのなら早くしてよ。
 いつもは心を殺している。精神的自殺。そうすると、僕はまるで天国に行くみたいに、上から僕自身が見えている。他人事。かわいそうだな、こいつは、と、そう思う。それだけで、その数時間の間、身体にいのちはあっても、僕は死んでいる。
 でも、今日は救いに希望を持って、生きていた。生きるあかしの荒々しい呼吸と高鳴る心臓、生きたままこの拷問を受けるのは久しぶりで、つらい。死ぬことを覚えたのは数年前だ。
 ボタンを佐々山さんがはずす間、僕はベルトに手をかける。着ていたものを全て床に落とすと、また無理やり手を引かれる。水の張られた浴槽が目に入る。揺れている水面、きれいな水。暖かさはなくて、冷たそう。この、星に住むぼくをとりまくものは冷たい。水の星。ああ、はやく死んで、水の中でもがくのをやめたいのに。
 伸びた髪の毛を乱暴に掴まれて、浴槽に押し込まれる。僕は浴槽のふちに手をかけて抵抗するけれど、全身から力が抜けている。抵抗するのは生きているあかし。ごぽごぽという水の音、口を開くと大きな泡が音を立てる、呼吸ができなくなると、頭がぼうっとして、動けなくなる。それが、好きなのである、とても趣味が悪い。そんなことしなくても、僕は抵抗しても逃げられやしないんだ。
 頃合いかと見たのか、髪の毛を引っ張って僕を浴槽から引きずりだした。僕は口の中に入った水を吐き出して、ぐったり座り込んで、ぜーぜーと必死で肺に空気を取り込んだ。目の前がちかちかする。何かの合図でもしてるみたいに、同じ感覚の光。
 そしてまた、僕の震える体に手を伸ばす汚い手。それを、僕は、ぼんやりと見ている。何も失うものはない、汚い体だもの。何をされても、これまでと、もう既に変わらないから。
 僕の体に手が触れた瞬間、ひゅっと風の切る音がして、目の前が赤く染まる。佐々山さんの首が飛んで、浴槽にどぷんと沈んだ。赤く赤く広がる浴槽の水。時間差で、佐々山さんの体が崩れる。振り返ると、光る何かが、大きな刃物、剣のようなもので、佐々山さんの四肢を落としていく。そのたびに、僕の体に血が飛び散る。
 殺される。僕も。逃げる力はない。光る何かを見上げる。金色の髪をゆらゆらウエーブさせて、青い目をした外国人。青いポンチョに白いパンツ、茶色の長いブーツ。血が飛び散っている。手に持っていた剣から手を離して、じっと僕に近づいた。鼻と鼻がくっつく、それくらいの距離。
「落ち着く香りだ。まるで、ラベンダーの香りのようだね」
 男なのか女なのかわからないけれど、声でわかった。いつも僕に呼びかけてくる一人だ。鉄臭いのに、おかしなことを言う。これが救い?
「おっと、大丈夫かな。落ち着いて。立てるかい?」
 伸ばされた手を握ると、あたたかかった。そのまま力強く引かれて、僕は立ち上がることができた。
「血を洗った方がいいね。汚らしい血だ、こんな生き物が世界を埋め尽くしてるなんて、吐き気がするくらいだよ、ねえ……」
「あなたは誰?」
 呼吸が落ち着いてきて、やっと発することができた。そうすると、声を上げてそれは笑った。
「はは、ごめん。うっかりした。……そうだな、ツォハル、ツォハルって呼んでくれるかい?」
「僕を助けに?」
「ああ、そうだよ。もっと早くに来たかった。ごめんよ。さあ、これからはぼくがシヅル、きみを守るよ。もう大丈夫。怖がることなんてないからね。さ、ここに少し座って、足を上げてくれる?」
 とん、と浴槽のふちを叩いたツォハル。言われた通りにすると、ツォハルはぼくの足にキスをした。
「さて、ぼくの本当の名前を教えてあげる。これは二人の秘密だ。ツォハルって名前は、普段ぼくを呼ぶときに使ってほしい。本当の名前を教えるのは、ずっと一緒で、ずっと守るって証だから、二人の秘密なんだ。覚えておくんだよ、ぼくの名前はね……」
 ベランダを開けて、コンスタンティアが歌っている。秋風に揺れるカーテンと、緑の髪と、ゆらめく歌声があたしだけには聴こえている。
「じゃあ、棄てるの?」
「じゃあ棄てるの……」
 続けてみるとにっと笑って振り返った。あたしは今日もベッドの上だ。ぐしゃぐしゃになった教科書やノートはゴミ箱に捨ててしまった。あれだけの悪意を向けられたのってどれだけぶりだろう。あたしは居なかったことになることで、これまでなんとか生きてきたのに。
 家から出なくなって二日経った。携帯からは学校から電話がかかっているみたいだけど、履歴を消してなかったことにする。
 コンスタンティアは、たとえば、学校に行ったらどう? とは言わない。コンスタンティアが人間ならば、学校に行かないと成績が、進学が、就職がとしつこく言うだろう。駄目人間の刻印を、背中に熱く押し付けて、がなりたてて、あたしが泣いても怒っても外に出すのだろう。
 でも、幸いなことに、コンスタンティアは人間ではない。人間らしくあっても、人間ではない。学ぶことのすばらしさ、重大さは理解しているだろうし、だからこそ本を読んだりするのだ。でも、強制はしない。いや、むしろ、喜んでいるかもしれない。あたしと過ごす時間が増えるから。
「アイちゃん、今日はね、夜の映画が面白そうよ」
「じゃあ、おやつとか、買ってこようかな……」
 逃避、逃避、現実からの逃避。もっとつらい現実からは逃げられないから、少しくらい逃げたっていいと思うの。ベランダから戻ってきて、鼻歌を歌いながら飴を口に放り込む。あたしはまだ、人の温度の羽布団から出られないままだ。
 メルヴィルの痛々しい姿を嫌でも思い出す。手足のない体と、動いていない臓器に、透けて見える骨。水の色に浮かぶのは泡と呪い。今すぐにでも消えていきそうな、うたかたびと。
「皆幸せになれる未来ってないのかなあ……?」
 アキラ、あたし、シヅル。誰かが犠牲になる。不幸になる。あたしに、とメルヴィルは言っていたし、あたしがやらなくてはならないと決意をしていたものの、わずかな平和の時間に抱いた夢だって逃したくない、まだ十六歳。人間として過ごせたのは二年くらいしかないのに。
 その、天井に吐いた希望を打ち砕くのは、コンスタンティアしかいない。ベッドから動けないあたしに、そっと近づいて手を頬にそえる。
「アイちゃん。それはね、できないのよ。みんながみんな幸せになったら、またそれで差ができて、不幸せな人が出てきてしまうの。幸せになる権利はどんな悪人にだってあるわ、生きているかぎりは。でも、誰かの幸せの裏では、絶対誰かが不幸になっているのよ」
 クロゼットを開けて、あたしのお気に入りの赤いブラウスを取り出したコンスタンティア。
「このブラウスだって、本当はどうなのかわからないけれど、これが作られて、アイちゃんの手に渡るまでに、たくさんの人が苦労したものよ。もしかしたら、そうね、幸せな時間を削られてできているかもしれないわ。ひとは、他人の幸せを奪って生きてるのよ」
「あたしも?」
「ええ」
 そう、コンスタンティアは断言する。あたしはこれまで、生きてきた中で、搾取されるほうだと思っていた。必要なことを知らない罪を利用されて、わからないままに、持っていた数少ないものを全て奪われてきたと思っていた。
「毎日食べるごはんだって、そうよ、ハンバーグだって、肉はもちろん、それを育てて、屠殺して、加工して、スーパーに並んで、やっとアイちゃんの手に来るの。その間にたくさんの幸せが消えているはずだわ」
「よく知ってんだね」
「たくさん本を読んだわ。テレビも、映画も見たの。あの人も、たくさん本を読ませてくれたわ。アイちゃんもそうね。うれしいわ、私は人が好きだもの」
 幸せを奪い合って生きているわれわれが醜いのは当然だろう。恵まれたものを僻んで、恵まれないものをあざ笑っている。手足のない芋虫のあたしでさえ、幸せを奪って生きていたとしても、今の気分は、首にギロチンを当てられてるみたいだ。
「どうしてさ、そんなに人が好きなんだ。醜いところ、たくさん見てきたろ」
「そうね。許せない人だっているわ。私が人を好きになったのはね、きれいなものを作るからよ。絵も、文も、像や、お洋服、家具だって人が作るでしょう。悪魔は、そんなこと、しないもの。殺して、勝って、負けて、食べて、食べられるの。それで終わりだから、このせかいに憧れる悪魔だって多いのよ。私たちには理性があって、言葉をかわせるのに、暮らしは原始の動物と何にも変わりがないわ……」
 目をつむって、首を上げる。故郷のことを考えているのか、それとも。そのコンスタンティアの思考を阻止するように、インターホンが鳴った。あたしはぴくりとして、クラスメイトだと思うと恐怖が背中を舐めていくのがわかる。昔はこれよりこわい目にあってたくせに、あたしったら、幸せに浸りすぎたかな。
 コンスタンティアがするすると玄関先まで見に行き、あたしに声をかけかけた。
「アイちゃん、アキラくんだわ。どうする?」
「アキラ? なんで、また……。開けるよ」
 体に体温が戻っていくのがわかる。いそいで飛び上がって、最低限髪を整えて、よろよろと扉を開けると、スーパーの袋を大量に持った制服姿のアキラが居た。
「あ、ああ。いきなり、すまん。風邪でもひいたかと心配で、一人だから買い出しにも行けんだろうと……」
「風邪じゃないよ、ごめん。でも、ありがとう」
「とっといてくれるか」
「もちろん」
 どうぞ、と手招きしてアキラを部屋の中に入れた。アキラの買ってきたものはおかゆや、ゼリーやアイス、スポーツドリンクなどなど、病気なら食べやすいものばかり。丁度食欲もなかったしありがたくいただこう。
 冷蔵庫まで運ぶのを手伝ってくれる。
「病気じゃないのなら、まあ。よかった。行き掛けにシヅルと話をしたんだがね。あれにやらせるにはあまりにかわいそうだ。この世の地獄を見てきたような……、そんな目をしてた。おまえもそうだったが……」
「シヅル、来たばかりだからね」
「ああ。ああ、そうか。それとと弁当箱と、学校のプリント」
 畳まれた包みと、ピンクの弁当箱に、ファイルに入った課題プリントだ。それを見て、ほっとして、椅子にぐったり座った。クラスメイトの誰かが届けにきたりしたらどうしようかと思ったから。
「うん、うん、ありがと。ごめん、あたし、アキラに答えられないのに、こんなことさせて」
「いや、オレが面倒見たいだけだから、迷惑なら言ってくれ、別に点数稼ぎでしてるわけじゃないし」
「ううん、そんなことない。助かる」
「なら、いいんだ」
 アキラもぐったり、あたしの向かいに座った。
「ちょっとだけ、座らせてくれな」
「どうぞ、お茶いれる?」
「いい、いい、すぐ行くし」
「うん、そ」
 蛍光灯を薄めで見ると、小さな粒が見える。小さな光の粒が。あたしは、少しの自由の間に夢を見てしまったんだな。こうして、人と触れ合ったりしなければ、何も悩まずに池に沈めていけたし、お菓子の夢だって見なくて済んだのに。無駄に苦しむことなんてなかったのに。
 おじいちゃんはどんな思いで、この地で、メルヴィルと共に暮らしてきたのだろう。おじいちゃんにだって、夢があったろうに。
「学校、行きたくないんだ」
 アキラに、吐き出す。
「ん、別に、いいんじゃないか。行かなくても、オレらの未来は決まってるし。未来が不安だから行くんだよ、皆」
 あったことは言わないつもりでいる。アキラの好意は受け取るけれど、アキラになんとかしてもらったら、利用だけする悪い女だもの。あたしは決して、アキラには、何もできない。してあげられないから。
「アキラは行くんだ」
「ま。行かないと親がうるさいし、世間的にもまずいからな」
「諦めてるの?」
「反発してた。でも、ま、そうだな、反発してもオレの力じゃなんにもならないし、兄貴も死んだ今じゃオレの身体は貴重なものだから。諦めたっつか、大人になったってか。夢を見ずに現実を直視することを、大人になることだとオレは思ってて、オレは少し大人になった」
 それだったら、あたしは、昔の方が大人だったし、大人を押し付けられていたな。夢を見ることを許されない。一日を生き残れるよう、必死に大人の顔を窺っている。誰に優しくされるわけでもなかった。小さいあたしは孤独で、細い手足で、何も見えない砂漠を裸足で歩いてるみたいだった。
 それがいいことか悪いことかなのかは、世間的には悪いのだ。まだあたしは夢を追いかけていい年齢で、大人になるのは早すぎるはずだもの。やっと見つけた未来へ生きるための希望に縋り付いてるのは、本当に子供みたいで、嫌になるくらい。思った時は諦めるつもりで話していたはずなのに、逃避している。
 この世に生きるすべてのために、あたしはすべての不幸を背負わなければならない。その殆どは、あたしやアキラが不幸を背負って生きていることを知らない。生きるという幸せを無条件に勝ち取っているのを、あたしたちのおかげだということを知らない。
 知られたところで、ちやほやされたり、神格化されるのも嫌だけれど。あたしは嫌いな人間たちのために、この人生を全て投げ出さないといけないと思うと怒りが芽生えてくるのは、決して間違っているわけではないはずだ。ぐしゃぐしゃの教科書を脳裏に浮かべて。
「あたしの昔のこと知ってるんでしょう」
「まあ、さらっとは」
 アキラは、目を背けるようにする。他人だって直視したくない過去。
「そんな人たちも、あたしは、守らないといけないのかなあって」
「選べない。こいつはダメとか、こいつはいいとか。オレたちは神じゃない。やるか、やらないか、それしかない」
「許さないといけない?」
「そんなことはない。正義。というか、正しいことをするまでだ。そいつらのことを思ってするわけではない、自分の好きな人のことを想って、その人たちに生きて欲しいと願っていればいいと思う。ついでさ。そりゃあ、忘れられないことだろうとは、思うが」
 はあ、と、大きく息を吐いた。お菓子なんて、家で焼けるじゃない。キッチンだって、きっとおじいちゃんに頼めば、おじいちゃんの家を工事してもらえるかもしれない。
 あたしは嫌い、諦めてるの、甘いチョコレートの味を想像している。甘い夢が見たいな、今夜くらい。
 思わず逃げ込んだ、緑の水が波打つ深泥池。コンスタンティアがここは心地がいいとよく言っていたっけ。それは、ここにたくさんの死体が沈んでいるからなのだろうか?
 橘と灰淵の一人一人が守ったり、狂いながらも、平和を保ってきた。この中には死体のほかに、何があるのだろう。好奇心は猫も殺すけれど、あたしは何度も死んでいるし、今だったら死んでも構わないと思った。
 起きあがって、嫌な臭いのする水に触れようとすると、水面が盛り上がって、顔が見える。あたしは叫んで後ろに下がり、コンスタンティアに思わずしがみついた。じっと、赤い二つの目がこちらを見ている。いくつかの沈黙のあと、その顔はぬらりと腕を出し、池からよじのぼり、水から這い出てきた。
 髪は深い青で腰くらいには長く、その体には、四肢がない。いや、あるのだが、その四肢は、ビニル袋に入っている水のようで、途中で切断された四肢につながっている。
 体も水の色をして、うっすらと骨や、そして胸にひとつだけ心臓だけが見えるが、それは動いてはいない。顔つきは優しげで、裸だが、男女を見極めるようなものはないが、少し胸に膨らみがあるように見える。身長はツォハルよりも高く、コンスタンティアよりは小さい。
 あたしにはわかる。赤い目は、赤くなる目は悪魔の目なのだ。
「や、やあ。こんにちは」
 声は少し低く、少年のようだった。きごちなく笑う、それ。
「あ、ああ、こんにちは……」
 あたしは返す。コンスタンティアの様子を伺うと、はっと、目を見開いて、それがなんなのかわかったようだった。
「し、知り合い?」
「いいえ……、ても、有名な方よ。お会いできて、とても嬉しいです」
 コンスタンティアが膝をつき、頭を下げる。
「いいって、そんなのさ、こっちにいる間は関係ないから。顔上げて……。いつか、話をしたいと思ってたけど、おれはここから動けないから。えっと、こっちではメルヴィルって呼んでくれる? それがこっちでの名前なんだ」
 そう、手を出す、メルヴィルと名乗った悪魔。あたしはその、水の手を握った。まるでスライムでも触っているような感触だった。
「あたしはアイ。こっちはコンスタンティア」
「うん、知ってる。よろしく」
 いつもこの池には居たのに、なんでまた、このタイミングでメルヴィルは出てきたのだろう。そして、なぜここにいるのだろう。
 ツォハルが見つけたという、大きな竜とやらでは、なさそうだけれど、メルヴィルはどう考えても悪魔だ。赤い目は、悪魔の目だ。
「そろそろかなと思った頃合いに、来てくれてよかったよ。おれはセイイチロウ……、セイくんって普段は呼ぶんだけど、まあ、それは置いといてね、セイくんに憑いてる悪魔だよ」
 あたしはやはり、と思った。
「つまり、うん、セイくんはキミのおじいちゃんで、おれはこの池を守ってるわけなんだ、よね」
 メルヴィルは少し目を閉じた。
「セイくんの娘が、しきたりを嫌がってこの地を飛び出したから、セイくんとおれは池を守ってるんだ。池を守らないと、たくさんの、これまでとじこめてた悪いものが飛び出してくるんだよ。この池はずっと昔から呪われていたからね。それで、さ、セイくんも歳だし、おれも、腕と足がなくなっちゃったんだ。あまりに長い時間を、ここで過ごしすぎて」
 コンスタンティアは手で口を覆う。
「そんな……、手足は戻るんですか?」
「わからないけど、きっと、セイくんとおれが池を離れることができて、おれがもともといるべき所に帰れば、戻ると思う。おれは、まあ、そこまで弱くはないし……」
 と、俯向くメルヴィル。コンスタンティアの反応からして、メルヴィルはかなり悪魔の中でも有名なもののようだ。そう、たとえば、ツォハルのように……。そんな悪魔が、長い時間とはいえ、四肢を無くすほどの呪いを身に受けている。
 あたしはおじいちゃんを継いで、コンスタンティアとこの地を守るつもりでいた。シヅルを自由にさせたかった。けれど、コンスタンティアが酷い目にあうのは、嫌だ……。お母さんたちにも悪魔がいて、仲が良くて、その悪魔が呪いを受けることを嫌がったのかもしれない。強い悪魔を従えるべきだ、と、いう言葉が頭に響いている。
「セイくんは、後継にアイちゃんをと思っているみたいだよ。セイくんの言うことは正しいからね」
「……そ、うなんだ……」
 おじいちゃんが、あたしを。あたしなら出来るって、そう思ってくれたなら嬉しいけれど。でも、……。
「うん、セイくんは少し先の未来が見えるんだ。シヅルくんとアイちゃん、どちらがいいのか見て……、アイちゃんがいいって。でも、嫌だったり、シヅルくんがやりたがったらそれは本人たちに任せるとは言っていたけれど……。でも、セイくんの顔は深刻だった」
 そ、うか。おじいちゃんは見えていたんだ。娘たちに後継を無理やりさせるか、自分とメルヴィルでこのまま続けるか、どっちがいいのか。そして、娘たちが深泥池を離れるのを、本当に、苦しい思いで見送ったのだろう。狂ってしまうのが、わかるから。
 そしてわかるから、おじいちゃんは灰淵家に頼んで、アキラの兄のヤマトらを娘の監視役に置いて、すぐに悪魔を殺せたんだ。
 おじいちゃんはメルヴィルと一緒だとしても、孤独だった。おじいちゃんだって、強く見えるけど一人で必死に背負って生きてきたんだ。
 あたしに大きなテレビと、机を買ってくれたのも、きっとシヅルとあたしが仲良くなることを知っていたから、だったんだ。
 おじいちゃんとメルヴィルだって、あたしたちと変わらない、人と悪魔なんだもの。でも、シヅルに憑いているのは御使いだ。
「シヅルがダメなのは、ツォハルのこと?」
「あ、ああ。あれは、ツォハルって名乗っているのか。はは……、バカらしいや。……そうだね、前の代は御使いがここにいたんだけど、その御使いがなかなか同意しなかった。御使いはそもそも、神の使いだからね。人の使いじゃあない。自分の一番やるべきこと、神に従うことができなくなるってことは、それはすなわち御使いでなくなる、堕天する、悪魔になるってことで、奴らが一番恐れていることだからさ」
 ならば、なおさらあたしがやらねばならない。どうすれば……、いい答えが見つかるのか。おじいちゃんが、あたしにと言うなら、あたしにできるはずだ。でも、どんな形で?
 メルヴィルはコンスタンティアをじっと見る。
「ああ……、キミはリリンなのか。リリンにやらせたことは一度もなかったはずだね……」
 リリンとは、悪魔の子だと聞いた。何も恨まず、憎まず暮らす弱い悪魔だと。メルヴィルはリリンではない。
「……その、ごめんなさい、アイちゃん。私には、メルヴィルさまのようなことはできないわ。できたとしても、数年もつかどうか。だから、あまり意味がないと思うの……」
「いや、コンスタンティア、おまえが傷つく姿を見るのは嫌だよ。だからあたしも、あたしが継ぐのはいいけど、コンスタンティアにさせたりやしない」
 そのやりとりを見て、メルヴィルは申し訳なさそうにする。
「そうだね。難しいと思うし、おれが引き継ぐのも正直言って、かなり苦しいから、リリンではない悪魔を呼ばなければならないね。ただ、おれが苦しいのは長い時をここに繋ぎとめられていたからだから、いつものように引き継いでいくのなら、断る悪魔なんてほとんどいやしないよ。なんたって、セイくんたちの死の匂いはおれたちを夢中にさせるんだ……」
 ごぽごぽと、手足の水から泡の音がする。メルヴィルが体を動かすたびに、泡がたつ。長い髪を、水の手で耳に引っ掛けた。
「その時が来れば、セイくんから話があると思うよ。苦しいかもしれないけど、どうか、セイくんと、それからおれを、この池から引き剥がしてほしいんだ。これ以上の苦しみは、おれには耐えられそうにないから……」
 四肢のない身体は、本当に痛々しい。それほどの呪いを何十年も引き受けてきたメルヴィル。この姿を晒すことだって、嫌なはずだ。メルヴィルの正体を、コンスタンティアは知っているようだった。
「その、嫌だったら答えなくていいんだけど、メルヴィルって、偽名だよね?」
 あたしが尋ねると、メルヴィルはさっきの憂鬱な顔をからりと変えて、笑った。
「そうだよ! セイくんと出会ったときにつけてもらったんだ。本当の名前を日常的に呼ぶのはまずいからね。と、いうか、コンスタンティア、キミもそうだろう? 本名をもしかして、教えてないのかい?」
 コンスタンティアは居心地悪そうに、よくわかっていないあたしに、優しく抱きついた。
「ごめんなさい、アイちゃん。本当に……、ごめんなさいね」
「おまえには、名前がなかったんじゃあないのか?」
 前に憑いていた人間につけられた名前、コンスタンティアを上書きしたあたし。名前がないから、つけてくれと言ったと聞いたけど。
「普通は一緒にいると決めたときに、名前をつけるんたけれど、あの人と私には、名前を呼びあう必要がなかったから。本名は教えていたわ。最後に、この世界で生きるための名前をもらったのよ。人間に本名を教えるのは、名前知ることは、一緒にいて、あなたの言うことを聞きますってお約束なの。だから、普段呼ぶときの偽名をつけるのよ。だから、なんだか、私怖くて、アイちゃんに伝えられなかった。ツォハルも、メルヴィルさまも、本名があって、それを教えているのよ」
「あたしには、やっぱり、教えられないか?」
 泡の音と、息づかい。呼吸で上下する胸。たとえ、あたしがメルヴィルとおじいちゃんの引き継ぎをするために、コンスタンティアと離れなくてはならなくても、でも、まだ時間はある。
 コンスタンティアと過ごした時間は長くはないが、短くもない。喧嘩もしたし、仲直りもした。一緒にいて心地がいいし、あたしの心の支えであり、コンスタンティアの支えにも、あたしはなっているはずだ。
 名前を教えることを断られても、あたしは傷つかない。あたしはあたしを殺すことをしっているし、これまで通り、一緒に映画を見て、お風呂に入って、同じ羽布団に体を埋めるだけだ。何も変わらないし、変えられない。
「アイちゃんなら、いいわ。私、すごく幸せよ。アイちゃんが、私を傷つけたくないって、そこまで、思ってくれて。私もそう思っているから。私、自分にとって最高の女の子と出会えたんだわ、って、思ったの……」
 どくり、と、血の流れる音が耳に響いている。胸の奥から、生きている証として、主張する音だった。あたしは生きていく、コンスタンティアと、これからを。
 抱き合っていた腕を離して、コンスタンティアは腰をかがめて、あたしと目線を合わせた。
「私がお母さんからもらった名前はね、エステルよ。エステル、っていうの。有名な人からとったらしいけれど、私はそこまですごいことはできないわ」
 エステル。エステル。心の中で何度も叫ぶ。
「ありがとう、コンスタンティア……」
 あたしは口にはしない、その名前を。エステルの気持ちを知っているから、あたしはコンスタンティアと呼ぶ。二人きりでも、エステルの存在はあっても、あたしのそばにいるのはコンスタンティアだ。エステルではない。あたしのそばにずっと居てくれたのは、エステルではなく、コンスタンティアだから。
 月曜日、早起きして二人ぶんのお弁当を持って家を出て、お昼を迎えたとき、教室はざわついていた。なんたって、一年のクラスにあの『灰淵先輩』がやってきて、嫌われ者のあたしと話をしてるんだもの。
 ひそひそ聞こえるあたしの悪口。どうしてあの暗い子が、灰淵先輩に用事があるの? どうして仲よさげに話をしているの?
 心が冷えていくようだった。あたしは鞄を持って廊下に逃げ出すようにすると、アキラは教室の全員をぎろりと睨みつけ、あたしを追う。
「悪かったな、まさか、ああなるとは」
「ううん。いいよ。いつもあんな感じだし」
「しかし、ひでえ。あいつら、オレたちが居なかったらここで生きていけやしないんだぜ。それを知られたら知られたらで、面倒だがな」
 人に嫌われるあたし。人に好かれるアキラ。これって必然なのかな、そういう、血なんだろうか……。
「なんかあったら、言えよ。オレがぶちのめしてやるからな。橘の悲しそうな顔を見ていると、オレも悲しい。コンスタンティアはうっかり殺しちまいそうだが、オレは人間だからな……」
 そうやって、赤くなる片目を隠す横顔。アキラの生きられる時間は、もう半分も残っていない。あと、十二年ほど。そうわかっているって、どれほど恐ろしいだろう。どれほど悲しいだろう。
 あたしがいじめられるのなんて、学校を出ればおしまいなのに。
「外行くか。飲みもん、買ってやろう」
「……ありがと」
 学校の自販機でお茶を買ってもらって、ちょっと雑草が鬱陶しいけど、人に見つからないように学校の裏側でお弁当を開けた。ピンク色の蓋を開けると、アキラはわあっと声を上げる。
「うまそうだ」
「実際、まぁまぁいけるよ」
 コンスタンティアは出てこない。彼女なりに察しているんだ、これは恋人ごっこをしてるってこと。アキラの気持ちを叶えてあげたい。これはあたしの気持ち。本当の答えにはたどりつけないけど、せめて。
 ハンバーグを口に入れ、飲み込む、喉仏のない喉。
「ああ、うまい。こんなうまいもの、初めて食ったなあ……」
 手を震わせて、泣き出すアキラに寄り添って、背中をさする。その背中は大きい。とても。色んなものを背負っている背中。あたしとは違うものだけど、押しつぶされそうなんだってすぐにわかる。
「ごめんね」
 あたしはそうすることしかできない。アキラを救えない。
 まるで男の子みたいに、お弁当を大きな口で食べていって、うまいうまいと言いながら完食するのを見届けた。あたしは少しずつ、毎日食べるものだから少しずつ食べる。
「ああ、美味かった。ありがとうな。また食いたい……」
「何度でも作るよ。料理くらいで、よろこんでもらえるなら」
 アキラは、あたしに笑いかけた。まだ、涙が頬を濡らしている。
「あたしの前でくらい、弱くなっていいよ」
 そう言い放つと、アキラは俯いたあと、空を見る。青い空。雲ひとつない、少し肌寒いけど、日の光の下ならあたたかい。
「……兄貴のことを、考えてた。定期的にオレは病院に検査に行かなきゃならないんだが、オレの骨、足から骨盤のあたりまで黒いらしいんだ」
 命を喰い殺す、悪魔の黒。最後には全身が黒くなって、燃え尽きるように死ぬらしい。骨盤のあたり、ってことは、やっぱりあと半分ほどしか、アキラには時間が残されていないんだ。
「それで、さ、親父が後継をつくるための男を選べって、ファイリングした資料を渡すんだが、どれもこれも、男、なんだ。オレはホモじゃあない……。卒業したらすぐにでも、だとよ」
 アキラが必死に勉強していることを知っている。部屋に積まれたノートや参考書、それから買い物の夜食。アキラは学校に行きたいのに、大きなお腹で大学に通うのはさぞかし、目立つだろうし、男の格好、男らしく振る舞うこともできなくなる。
「……橘と仲良くなれてよかった。こんなに隣で落ち着ける女、いやしないよ。他の女はきゃあきゃあとうるさくてたまらない。可愛らしいんだけどな。でも、橘が一番可愛らしい……」
「あたし、男の人が嫌いなの。すぐ殴ったり大きな声を出すから。あとね、女の人も嫌いなの。すぐ嘘をつくし、悪口ばかり言うから」
「オレは?」
「あたしは、アキラをただの人、と、思ってないよ」
 そう答えると、口をにいっと歪ませた。
「そうか。そりゃ、よかった」
 秋の風がさらさら雑草とあたしたちの髪を流していく。風は冷たくても、アキラと寄り添っているとあたたかい。そっと体を預けてみると、アキラはそれを受け入れる。いや、受け入れたがっていた。お腹がいっぱいで、眠くなるもの。うとうとしていると、目の前に手が現れた。アキラの、大きな左手だ。人差し指には、黒い石のはまった指輪がはめてある。
「……これ、この黒い石、兄貴なんだ。遺骨をな、こうして、後継とか家族に、指輪に加工して持っておくんだ。戦って死んだことを、誇りに、いつまでも覚えておくために。そういう風に、何代か前に決めたんだ。もし、さ、オレが死んだら、オレの指輪をはめてくれないか……」
 自分の骨で作られた指輪を、はめてくれないか、なんて。結婚指輪なんかよりすごく、すごく重い。黒ずんで、到底綺麗だとは言えない指輪だ。骨、なんだものな。
 あたしは悩まない。考えない。ただ、頷いた。アキラの指輪を持っていたい。指輪は綺麗でなくても、きっとアキラの兄のヤマトは素晴らしいひとだったのだろう。だからあたしも、アキラの指輪を持っていたい。きっと、アキラはあたしより先に死んでしまうから。手を見るたびに、思い出していたい。あたしが今、花を見てアザミを思い出すみたいに。
「……どこの大学行くの?」
「候補はま、定めてるけど、心理学を勉強したいと思ってる。でも。やめようかと、思ってな。子育てしながら大学なんて、大変だろ。だからさ……」
 卒業したら、あと八年。それまでは勉強と出産後と子育て、橘家の監視。四年間、それを全てやらなければならない。妊婦であったり、小さな子供を抱えて。
「できると思ってた。でも、無理だってファイルを見て思ったよ。子供を産むのは仕方ない。決まりだからな。でも、大きな腹抱えて外に出るなんて、オレには恥ずかしくてできやしない。それに、子供を持ったからには、オレが死ぬまではせめて、オレの手で面倒を見てやりたいからな」
 と、あたしを見て。アキラは、あたしやシヅルの過去を知っているから。親に愛されなかった子供がどうなってしまうかを知っているから。ただでさえ辛くて悲しい現実を突きつけられることが決まっている子供だから、目一杯愛してやりたい。アキラは優しい。とても、すごく。
「いいな。アキラの子になりたい」
「はは……、それも、いいかもしれないな」
 そっと、子供をあやすみたいにあたしの頭に触れる。あたしは一瞬ぴくりと眉をひそませたけれど、すぐに安心して、目を瞑って、秋風の冷たさとアキラの暖かさでバランスのとれた温度の中で目を瞑る。
 ゆらゆら、ここでいつまでも眠っていたい。まだおとぎ話の世界の中かもしれない。うそのお話で、目が覚めたら、両親に囲まれて幸せなあたしがいるかもしれないという、ありもしない希望を、その暖かさは伝えてくるんだ。
「……ありがとな、橘。情けないよ、オレ。弱みをどこにも吐けないんだ。家では家族は子供の話ばかりで、友達にはこんな話できるわけもないし。橘だけさ、こうやってオレにしてくれるのは」
 ぱち、と目を開けた。チャイムが鳴ったからだ。
「いいよ。気にしないで。あたしにできることで、アキラが救われるなら。あたしは嬉しいし」
「そうか。さ、そろそろ、戻るか……。ごちそうさま、洗って返すから、また、よかったら作ってくれな」
「うん。わかった」
 二人で立ち上がって、自然に手を繋いだ。アキラの人差し指にはまった指輪の感触を、強く認識する。人が死んだあと、どうなるのかわからないけれど、きっとどこかで、アキラのお兄さんはアキラのことを見守ってくれているはずだ。そう思った。肩に、手を置かれる感触がしたからだ。
 アキラをよろしく、って、もしかしたら幻聴なのかもしれないけれど、でも確かに空に響き渡る声がした。アキラには、聞こえていないようだった。
 廊下で別れて教室に戻ると、くすくす笑い声がする。嫌な声、嫌な女の声が耳を蹂躙する。あたしの机の上に、ボロボロの教科書やノートが広がっている。マジックペンで落書きされている。
 先生がやってきたのに、あたしは立ち尽くしていた。あたしはいないと思っていたけど、アキラが来たから、あたしは居るようになったんだ。胸の奥がどくどく波打って、背中が冷えていく、冷えた視線を感じている。は、は、は、なるほど、ね。
「橘さん?」
 先生が声をかけるけど、あたしは答えない。ボロボロのノートと教科書を鞄に詰め込んで、教室を飛び出した。
「橘さん!」
 走って、走って、聞こえないふりする。見えないふりする。この世は嫌い。この、人間がひしめきあうこの星が嫌い。
 靴を履いて、そのまま、いつものサボり場所、深泥池にやってきた。木陰に座り込むと、コンスタンティアが現れる。
「ひどいわ……。どうしてあんなことをするのかしら」
「決まってるだろ。アキラと話をしたから」
「アイちゃん、私……」
 遮った。何を言おうとしているかわかっているから。
「殺すなよ」
 コンスタンティアはあたしの隣に腰を下ろす。
「……わかったわ。でも、私、すっごく許せないの。怒っているわ。どうして、あんなことをして笑っていられるのか、わからないもの。人を怖がらせたり、泣かせたり、悲しませることって、そんなに人にとって、嬉しいものなのかしら」
「まあ、大概の人間は、そうだろ」
「私は人間を理解したと、思ってたの。あの人も、アイちゃんも、シヅルくんもすごくいい子だから。でも、あんなに酷い人間、理解できないわ。悪魔なんかより、ずっとずっとみにくいものよ。あんなものの存在を、私、認めたくないわ」
「あたしもだよ、ほんと……」
 破れた教科書をテープではりつけてなおそうとも思わない。寝転んで、今日のことはなかったことにする。あたしを、あたしじゃなくする。上から見上げたあたしは小さくて、孤独に見えて、弱そうで、悲しい姿をしている。
 このままずっと上に行って、酸素のない世界に行ければいいのに。月にだって、今のあたしなら行けるのに。
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