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2026/02
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 部屋に戻って、シヅルがゆっくりとお寿司を食べる間、ほんとうにふつうの話をした。学校は一週間後から、あたしと同じ学校に通うらしい。シヅルは、成績がよかった。両親に勉強することを強要されていたようだったから。
 シヅルの両親がどうなったのかは、聞かなかった。聞けなかった。死んだのか、はたまた、あたしのお母さんのように精神病院にいるのか。それとも、……。きっとアキラや、灰淵が知っているのだろう。
「アイさん、あの、……」
「どうしたの?」
 シヅルの背後をじっと見てみるけれど、何もいるとは思えない。あたしには白狐さまとやらが見えないのだろうか。シヅルは、たとえばコンスタンティアのような『人に知られない存在』のことを知っているのだろうか。一度二人きりで、話をしてみたい。
「今日は、ありがとうございます……」
 頭を下げるシヅルの姿が、痛々しい。
「おじいちゃん、ありがとうございます。これから、お世話になります」
「気にするな。家族なんだから」
 家族。おじいちゃんと、シヅルと、あたしなら家族って言ってもいいかな、と思う。お母さんとお父さんは、あたしにとって恐怖を与える存在だった。ただ、脅されて、生きるために媚びたり、隠れたりしていた。あたしは嫌でも、シヅルの言葉の弱々しさや、ちょっと目線をはずして話したりするところから、シヅルが本当に苦しんでいたことがわかってしまう。あたしもそうだったし、今もそんな所があるから。
「アイス、買いに行かない?」
 シヅルに声をかけると、驚いた様子で、また、すこし悩む。
「いいんですか?」
 そのシヅルの答えに、おじいちゃんはおだやかな表情を見せた。二人の孫たちが仲良くしようと手を取り合うのは、おじいちゃんからしたら、本当に嬉しいんだろう。
「ほら、これで、二人で行ってきなさい」
 そう言って、シヅルの手に千円札を握らせた。シヅルはまるではじめて見たもののように、お札をまじまじと見る。シヅルの過酷な過去が、生活が嫌でも見えてしまう。
「ここで暮らすんなら、コンビニの場所早めに知っといたほうがいいでしょ。行こ?」
 正座しているシヅルに手を伸ばす。触れて、くれるかな。あたしのことを信じてくれるかな。あたしがシヅルだったら、怖いと思うけれど。シヅルはそっとあたしの指に触れて、それからゆっくり手を握って立ち上がった。強いんだ。シヅルは、まだ心が死んでいない。

 手をゆっくり引いて、玄関へ歩いていく。あたしはいつものクロックスで、シヅルは紺色のスニーカーに足を入れて靴紐を結んだ。
「アイさん、ありがとう。僕なんかに、気を使わせちゃって」
「気にしないで。ゆっくりでいいよ」
 きゅ、と、丁寧に紐が結ばれる。指先は白くて、妙にきれいだ。シヅルが立ち上がると、ふわっとセミロングほどの髪が浮いた。さらさらとした髪は、思わず触れてみたくなってしまうほどだった。
 あたしが少し先を歩いて、シヅルは少し後ろを歩く。思えば、コンスタンティアがいないのって、久しぶりだ。コンスタンティアはあたしを家から出してから、ずっと一緒だった。シヅルの背後にいる、白狐さま、って?
「アイさん、あの、……」
 あたしがどう切り出すか悩んでいると、シヅルのほうからあたしを止めた。振り返って、古い街灯に照らされるシヅルを見る。このあたりは住宅街ではあるけれど、住んでいるのは老人ばかりで周りに人はいない。
「なに、どうしたの……」
 あたしは、はっと目を見開いた。シヅルの背後に人がいる。金色でゆるくウエーブした髪、青い目、白い肌。外人だった。紺色のポンチョのようなものに、白いパンツに、茶色の長いブーツといった姿をしているが。あたしには、わかる。この人間が人ならざるものだということを。
 あたしに向かって歩いてくるものの、コツコツと、するはずの足音はない。近くで見ると随分綺麗な顔をしていると思う。垂れた目、悪魔の赤い目とは違う、アイスブルーの透き通ったような眼球の色。
「こんにちは、アイくん。で、いいね?」
 男なのか、女のかもわからない。男にしてみれば顔は綺麗で、ポンチョからちらりと見える細い腰は男には見えないし、かといって胸や尻が大きいわけでもなく、うっすらとしている。声だって高いのか低いのかも判別できない。背は、おそらく百七十前後のシヅルより少し高いくらいだった。
「あ、そうだけど、おまえは……」
 唾を飲んだ。あたしの肌が震える。本当の答えを、聞いてしまうこと。コンスタンティアの、敵。
「怖がらなくても、いいよ。ぼくは君のことを気に入ってるからね。シヅルと同じくらい、いい死の香りがするよ。落ち着く香りだ。まるで、ラベンダーの香りのようだね」
 あたしの顔にぐいと近づいて、まじまじとみる。シヅルはそれに近づいて、腕を引いた。
「びっくりしてる。やめてあげて」
「ああ、ごめんよ。あまりにいい香りがしたから。ええっと、ぼくはツォハルって言うんだ。いろいろ名前を使い分けているんだけどね、シヅルには本当の名前を伝えてるけど、普段はツォハルって呼ぶよ。だからツォハルって呼んで」
 ツォハル、と名乗った謎のいきもの。いや、生き物といっていいのか、ツォハルのまわりにはキラキラとした光の粒が舞っていて、神々しい。まるで、あたしなんかが顔を上げて話すのが失礼にあたるのではと思うほどに。
「そ、そう。ツォハル。よろしく」
「よろしく。ええと、きっと君はぼくが何なのかわからないから、怖がってるんだよね。そうだな、なんて言えばいいかな。きみや、きみの連れていた悪魔より存在のステージが三つばかり上の存在、だと言えばいいのかな。概念に近い、んだよね……。ま、それでも、こうやって言葉を交わせるんだから、良い友人になれるといいなと思っているよ」
「あたしの、悪魔!?」
 ツォハルには、コンスタンティアが見えていた。コンスタンティアはわからなかった。コンスタンティアよりも上の存在。
「ああ、なんだか弱そうな悪魔を連れていたよね。きみならもっと、強い悪魔だって従えさせることができるのに」
「ねえシヅル。ツォハルとどうやって出会ったの?」
 ツォハルはなぜかうれしそうに唇を釣り上げた。シヅルは足元を見て、それからツォハルはシヅルの頬に手を伸ばす。
「僕はね、その。アイさんが、同じだって思ったのと、同じことを思ってた。ここに来た理由、とか。……僕はお風呂に沈められていたんだ。息ができなくて、くるしかった。そしたら目の前が光ってね……、いつの間にか、お風呂の水が鉄臭くて、顔を上げたら血塗れだったんだ。後ろを振り返ったら、ツォハルが立っていて、僕に手を伸ばしてきて、立ち上がったんだ……」
 ぞっとした。あたしの記憶が蘇る。シヅルは続ける。
「よくわからなかったよ。足元には、知らないおじさんの死体があった。よく、わからなかったよ。ただ、ツォハルが、助けてくれたってことはわかったんだ。家の中のガラスが割れてて、お風呂から出たら、お母さんと目があったんだ。でも、話さなかった。シャワーで血を流して、服を着て、その間ツォハルは僕に大丈夫か、って、話しかけてくれてた。頭を乾かさないまま、僕はツォハルとマンションから出たんだ。すごく、気持ちいい、風が吹いていたんだ」
 コンスタンティアと、外で跳ねまわったあの日。戻りたくない血塗られた過去。ツォハルは、コンスタンティアとはまた違う何かなのはわかるけれど、なんなのかはわからない。
「ぼくは、シヅルが好きだから。死んでほしくなかったんだ。それだけだよ。それから、シヅルは怖がっていたから、ならぼくがそばにいて、落ち着けばいいかなって。ぼくには色々やることがあるんだけれど、この体はツォハル、って呼んでいて。ツォハルはシヅルのそばにいることにした。それだけだよ」
 うっとりとした顔でツォハルは、シヅルに触れる。コンスタンティアの、呪いをあびた身体とは違う神聖なもの。ツォハルは、たとえるなら、彫刻家がていねいに作り上げた神々の石像のような。そんなイメージを持つ。人間が届かない、悪魔でさえも届かない領域のもの。
「アイさんも、そうなんでしょう……?」
「ま、まあ、変わらない。そんなとこだね」
 そう答えると、シヅルははっとする。あたしの隣に光の粒がかたまって、大きな、赤い角のある女が這い出してくる。コンスタンティアだ。コンスタンティアは黙って、ツォハルを見ている。今はツォハルのことが見えているらしい。
「あなた、アイちゃんをどうしたいの?」
「うん? どうもしないけど。ぼくはシヅルのそばにさえ居られればいい。逆に、さ、シヅルの邪魔をきみがするなら、きみみたいな弱い悪魔、ぼくは指一本あれば消してしまえること、わからないわけではないだろう?」
 コンスタンティアは身震いする。そう、コンスタンティアが逃げた原因はツォハル……! でも、争う必要なんてないのに。コンスタンティアはあたしが好き、ツォハルはシヅルの側にいたい。同じじゃないか。
「アイくん、ぜひ、今すぐ契約を破棄することをおすすめするよ。きみならもっと強くて頼りになる、そう、ぼくのような存在が守ってくれるはずさ」
「やめて、やめてよ! アイちゃんに余計なこと吹き込まないで! この、悪魔……!」
「余計な? 真実だろう? アイくんの器にはもったいないよ。ま、決めるのはアイくんだ。ぼくだって、シヅルに離れてくれと言われればそうするしかないし。……さ、二人の邪魔だ。ぼくは消えるよ」
 そう言ってツォハルはあたしたちに背を向けると、いつの間にか消えてしまっていた。アスファルトにうずくまるコンスタンティアに、あたしは手を伸ばす。あの日と逆。
「心配するなよ。コンスタンティア……。あたしがこんなことで、おまえのこといらないって、言うわけないんだからさ」
 シヅルも駆け寄って、コンスタンティアに頭を下げた。
「ごめんなさい、コンスタンティアさん。ツォハルは、ちょっと、正直者すぎることがあって。悪気はないんです。いいひと、なんです。だから、その、あとで、叱っておきます……」
 シヅルの手が、コンスタンティアに触れた。触れられる。二人でコンスタンティアを起こした。コンスタンティアはシヅルに、小さな声でありがと、と言った。
 それは、いつもあたしに言うようなトーンと、口調と、気持ちではなかった。
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 おじいちゃんに呼ばれて、おじいちゃんの家、いわゆる橘家の本家にやってきていた。アパートからは歩いて十分くらいだし、あたしも困った時におじいちゃんを訪ねるので、おじいちゃんの家に行くのは特別なことではない。
 ただ、あたしのお母さんのお姉さん、の子供、いわゆるいとこが、おじいちゃんの家に来ているとのことだった。あたしは幼い頃に会ったことがあるくらいで、名前さえおぼろげだ。たしか、名前はシヅルと言った。おとなしそうな男の子で、座布団に礼儀正しくちょこんと正座していた姿しか覚えていない。確か今は東京で暮らしていたはずだけれど。
 大きな屋敷は、以前アキラが言っていた、橘の家がこの地を守っていたという話を思い出させる。そこまで考えたことがなかった、ただ単に、おじいちゃんがお金持ちなんだと思っていた。
 家の中、真ん中にある居間として使っている部屋。畳がしいてあって、広い。その真ん中に、広い畳とは大きさの合わないこじんまりとしたちゃぶ台が置いてあって、あたしのぶんの座布団がある。おじいちゃんが座って、そして、あたしのいとこであろう、黒髪を何故か女の子のように伸ばした子が居た。目を伏せて、あたしのことを警戒しているようだった。
 テレビがついていて、ちょうど七時なのでニュースが終わってバラエティになっていくころだ。ちゃぶ台の真ん中には、明かりでてらてら光る、大きなネタの乗ったお寿司がぎゅうぎゅうに詰まった桶がある。
「アイ。よお、きた。シヅルに会うのは何年ぶりか、確か、五才の時だったかな。あの時は珍しくここで集まりをしたから、一族が集まったんだ、覚えてないだろうが……」
 おじいちゃんの言うとおり、あたしはおぼろげにしか覚えてない。そして、この女の子みたいな子は、やっぱりシヅルだった。あたしは座るように言われて、そのまま座布団に座る。シヅルは、少しあたしのほうを見た。
「シヅル。久しぶり。あたしのこと覚えてる?」
 シヅルは、ゆっくりと、首をまっすぐにして、あたしの顔を見た。そして、あたしもシヅルの顔を見た。白い、青白い顔。優しそうで、か弱い印象を持つ。目は男の子にしてはくりくりとして、髪もセミロングくらいまで伸びているからか、可愛らしい、と思った。シヅルはゆっくりと話し始める。
「う、ん。覚えてるよ。アイさんだね。同じ年だから、隣に座らせられていたよね。すごく、変わったんだね。こんな風に変わるとは思わなかったよ」
 五才から、もう十年は経つんだもの。あたしは金髪に染めているし、シヅルはなぜだか女の子みたいだ。男だけれど、女の子の格好をする人がいることは知っている。でも、シヅルの格好は黒いパーカーにジーンズで、男の物だし、なぜか髪だけを伸ばしている。単に伸ばしてみたかった、だけなのか。
「今日からシヅルは、おじいちゃんの家で暮らすことになった。アイ、シヅルは不安だろうし、気にかけてやってくれれば嬉しいんだが」
 シヅルの雰囲気から、いろいろと、察した。東京から、こんな田舎まできて。これって前のあたしと同じ状況じゃないか。不安そうにあたしを見る、シヅル。たくさんのものを大人に奪われてきた。今ここで、あたしと同じように自分の人生をやっと始めようとしている。
「うん。いいよ。あたしのアパート、近いし、遊びに来てもいいよ。古いけどゲームもあるし、漫画とか、本とか、いろいろあるから。それだけやりに来てもいいよ。あたしも、シヅルと同じような感じだからさ……」
 そう言うと、シヅルはびくりと肩を跳ねさせた。
「同じ……?」
「詳しくはさ、シヅルも嫌だろうし、話さないけど。きっとあたし、シヅルの気持ちわかると思うよ。だから、話したいことがあったらいつでもうちに来てよ」
 ぼろぼろの心、そしてぼろぼろの体が、服の下からも感じられる。シヅルが薄く笑ったのが見えた。よかった。
「ありがとう……。アイさんは、とても、優しいね」
 隣に居たコンスタンティアも、嬉しそうに笑っている。
「良かったわ、アイちゃん。友達ができそうね。仲良くなって、たくさん遊べればいいわね。シヅルくんも、可愛い子ね」
 おじいちゃんも、あたしたちのやりとりに安心したようで、お寿司を食べなさいと言う。シヅルと、あたしのためのごちそう。おじいちゃんが缶ジュースを持ってくる。あたしはいつもコーラを飲むからコーラがおじいちゃんの家の冷蔵庫にいつも入れてある。
「シヅル、コーラは飲めるか」
「大丈夫です」
 そうすると、おじいちゃんはコーラと、缶ビールを持って戻ってきた。それぞれに渡して、あたしとおじいちゃんは缶を開ける。遅れて、シヅルがよたよたとした手つきで缶を開けた。乾杯をするために缶を持ち上げるのも、シヅルは慌てて合わせる。あたしは、わかってしまった。シヅルはわからないんだ。乾杯することがわからないんだ。コツンと、缶どうしをぶつけるとおじいちゃんが嬉しそうにするので、シヅルもそれに合わせて無理やりだろう、笑顔を作った。
「じゃあ、手をあわせて、いただきますだ」
 三人で手をあわせ、いただきますのアンサンブル。
 おじいちゃんがお箸を伸ばし、あたしがそれに続く。シヅルは、それを見ている。
「食べないの?」
 声をかけると、シヅルはお箸を泳がせた。
「えっと、どれを、僕が食べていいのかと思って」
 その言葉を聞いて、おじいちゃんはシヅルの背中をさすった。
「どれでも、好きなものを食べていい。明日からはシヅルの好きなものを用意してやるから。おじいちゃん、これでも料理はよくしたからな。何にも、もう、怖がることないんだ」
 シヅルの頬に涙が流れる。きっと辛かった。あたしと同じくらい、それ以上かも、よく生きてここまで逃げてこられたな。シヅルは、強い人間なんだ。アザミと同じように、人の力を借りることはあっても、自分の力で今の周りを取り巻く環境から逃げ出す力がある。
 コンスタンティアも心配したのか、シヅルの横に座って、きっとシヅルは感じられないだろうけど、おじいちゃんとおなじように背中をさする。あたしもそうしたいくらい、シヅルの様子を見ていて、昔の自分を思い出して胸に刺さるんだ。
 そうすると、ぴく、と、シヅルはコンスタンティアのほうを見た。
「え、いま、何か……」
 コンスタンティアもシヅルから飛び退き、あたしの後ろに隠れるようにした。
「アイちゃん。怖いわ。あの子、怖いわ。触ったら、体がぞわぞわしたの」
 え、それって、アキラとおなじようなこと? シヅルも悪魔を……、目視することはできなくとも、感じることができる。……いや、シヅルはあたしのいとこなのだから、橘の血筋なんだ。悪狐に好かれる体質。でも、コンスタンティアがこんなに怯えている。
 おじいちゃんが、何もない空間を見ているシヅルに、声をかけた。
「白狐さまも、シヅルを慰めてくれてるのかもしれないな」
「白狐さま?」
 あたしが尋ねると、おじいちゃんは少し考えて。
「アイにも、いるだろう。幸せを運んでくる狐さまでね、この地に昔からおられる。白狐さまに憑かれると、病気の治りが早くなったり、心が安らいだりする。アイが良くなったのも、白狐さまのおかげだよ」
 ……あたしの白狐さま。コンスタンティアは、悪い狐。あたしの見えないところで見ている、また別の何かがいるの?
 でも、あたしの話を聞いて、あたしを元気にさせてくれたのはコンスタンティアだ。ぞわぞわする。コンスタンティアが白狐さまなら、アキラはコンスタンティアを追い払うとか、あたしごと殺すとか、そんなことはしなくていいはずなのに。
「アイちゃん、怖いわ、怖いの。何かがいるわ。わからないの。でも、私の命を狙う何かがここから見ているのよ。アイちゃん、助けて、怖いわ」
 あたしは少しお花を摘むわと座布団を立って、廊下に出た。
「怖いって、何が?」
「わからないのよ、私の存在自体を否定するようなものだったわ。シヅルくん、シヅルくんに触れた瞬間だった。シヅルくんはなにもしてなかったわ」
 シヅルにも、何かが憑いている。それはコンスタンティアの敵のようなもの? 悪魔を否定するもの。だとするならば……。
「コンスタンティア、家に帰って、ゆっくり休め。あたしはシヅルの様子を見たいから」
「わかったわ。ごめんなさい、そばにいたいのに、ごめんなさい……」
 そうして、コンスタンティアは光の粒になって消えていく。わざとトイレに入って水を流した後、笑って居間に戻ってきた。シヅルの背後には、なにもいない。あたしには見えない。あたしの白狐さまと、シヅルの白狐さま。あたしたちの知るべきではない場所の、敵意を向けられていた。
 フローリングに体を横たえて何時間も経った。窓からはぎらつく嫌な太陽の光が差し込んでいる。今日は、学校に行かない。
 腕と足は自由に動くはずなのに、起き上がって何かしようとも思わない。幼い頃を思い出す。嫌なことが毎日あるから、羽布団にもぐりこんで時が経つのをひたすら待っていた。嫌なことが終わるまで、少しだけでも悲しみを忘れられれば動けるから。
 ただひたすらに、眠って、目が覚めてを繰り返している。多分、おそらく、夢の中なのだけれど、コンスタンティアの綺麗な、カナリヤの鳴き声みたいな美しい声が頭の中で鳴り響いている。いつもいつも聞いている声が、夢の中でぐわんぐわんと脳みそを叩いてるみたいだった。
 アイちゃん、好きよ、大好きよ。愛してるわ。聞き飽きたことば。コンスタンティアが何度も何度も愛してるわと言うけれど、あたしなりに考えて出した愛の解釈は、思いやりで、大切にすること。
 あたしはコンスタンティアにそう思えているのかは、わからない。でも、アザミに対しては、そうだったのだと思う。寄り添ってみたい、触れてみたい、仲良くなりたいと思ったから。あたしは、アザミに愛を知らされた。そしてこれまで愛を説いて、自分なりの理解に導いてくれたのはコンスタンティアだ。
 あたしは空っぽだった。水と、それ以外のいろんなものでしか無かった。人間として生きていく知識を、教えられるべきだったことを十分に教えられなかった。知ったのは、怖い時は布団に潜り込んで意識を上に持っていくことだった。そうすると自分が俯瞰に見える。怒られている、怒鳴られているあたし。それを聞いて止まっているあたし。抵抗して口答えでもすれば殴られるか蹴られるかわからない。だから、あたしはあたしを上から見る。あたしはあたしを他人にする。心をできるだけ守るために。それだけは嫌でも学んだんだ。
 空っぽだったあたしに、水を注ぐみたいに、愛以外にもたくさんの知識や感情を教えてくれたのはコンスタンティアだった。コンスタンティアは美術品や、文学作品が大好きだ。音楽も、映画も、テレビも大好きだ。一緒にゲームをしたこともあったっけ。お父さんが置いていった、古いゲームだけれど。コンスタンティアはコントローラーに触れられないから、あたしの後ろで一緒に謎解きをしたり、軍を動かして戦争に勝つための助言をしてくれた。
 娯楽を受け入れて、時間をそれに使い、悲しかったことを思い出さなくてすむ。他人の作り上げた悲しみは心に潤いを与える。自分へ直接与えられる悲しみは、乾ききって大地が割れていく。
 あたしは、また、罪をかさねたんだ。あたしは間違う。真っ暗の闇の中を手探りで歩いている。夜目のきくコンスタンティアがあたしの手を引いて正しい道に連れて行こうとしてくれるけど、その道はイバラの道だったり、ぬかるんだりしている。そこで間違っているんじゃないかとあたしが叫ぶんだ。正しい道が楽なはず、ないのに。それにコンスタンティアだって、いくぶんか夜目がきくけれど、間違ってしまうことがある。それを、あたしは、手を引いてもらっている立場で怒鳴りつける。あたしがしていることは、あたしが傷ついてきたことと同じじゃないか。
 取り上げられた包丁。やっと起き上がると、コンスタンティアはじっと、後ろで、あたしの様子を見ているようだった。
「アイちゃん。具合はどう? なにか、食べやすいものを作りましょうか」
 どこか、よそよそしい。
「いや、いいよ」
「そう。欲しくなったら言ってちょうだいね。私は、離れていたほうがいい?」
「そこにいていい」
「あ、アイちゃん……」
 まさか、そう言われるとは思わなかったらしい。あたしは間違う。間違うけれど、間違ったことで正しかったことをこの身で知ることができる。それの繰り返しが、人間として育つことなんじゃないかと思ったから。
「コンスタンティア。ごめん。あたし、ひどいことした」
「そんな、いいの。気にしないで。アイちゃんがどう思っていたって、私はアイちゃんが大好きで、アイちゃんのためになりたい」
 少し近寄って、いつもの距離よりも遠いけれど、心のつながりはきちんと感じることのできる距離だ。
「じゃあ、そうだな。あたしは、あたしの人生を生きてる」
「そうね」
「あたしが間違うことを恐れないでほしい。あたしは間違って学んで、賢い人間になりたいから。あたしの選択に、……言っちゃあわるいけど、おまえは関係がないだろ?」
 どう言われるか怖かったけれど、コンスタンティアは優しい。いつもの、優しい顔。伸ばす手は赤いし、あたしにとっても血に濡れているけれど、あたしのために流した血だった。
「ええ。干渉しすぎてはいけないって、私もあの人と学んだはずなのにね。アイちゃんが間違って辛い時は慰めてあげる。ココアのクッキーを焼いて、食べましょう。私はそばにいるわ。私はアイちゃんの逃げ場所になれればいいと思っているの」
「いまで、十分なっているよ」
「私も、間違って賢くなりたいわ。アキラに離れろって言われたけれど、一緒にいることは間違いではないわよね?」
 コンスタンティアが居なくなれば、本当にあたしはひとりぼっちだ。あたしはアザミみたいに強くない。アザミの折れた腕と、不気味な緑の水の波。
「間違いだと思う。でも、二人で答えを変える方法を探せばいいんじゃないか。アキラだって、悪魔の子なんだ。あたしとコンスタンティアがいることは、今は間違いかもしれないけれど、正しくする方法があるはずだ。あたしはそれを見つけたい」
「私も、幸せの固定概念というのがあってね。アイちゃんには、アイちゃんをわかってくれる素敵な男の人と暮らしていければ幸せなんだと思ってたわ。だって私は、あの人とお別れはしたけれど、思い出すだけでとろけそうな思い出ばかりだもの。でも、アイちゃんにとってはそうじゃなくて、私はそれを押し付けた。私の間違いだわ。酷いことをしたわ。許してちょうだい……」
「謝らなきゃいけないのはあたしだ、コンスタンティア。ごめん。酷いことをした」
 お互いに、お互いのことを思って謝る。これが愛なのならば、あたしはやっとはっきりわかった気がする。コンスタンティアのことを想って、優しい言葉を心からかけること。これが愛なら。
 アザミに対してにもあたしはそう思っていたけれど、もうアザミから言葉が返ってくることはない。アザミは、過去にいる。コンスタンティアは現在にいる。
 なにも、接吻して交わること、大切なものを触らせることだけが愛じゃないんだってこと。こうやって二人で、二人を思って正しい生き方を間違いながら考えていく。世間的には、ありえないって言われるかもしれない。あたしの嫌悪するたんぱく質たちは、安っぽい嘘の愛を語って簡単に体を交わらせる。子ができれば、できた瞬間は、二人の愛のかたちが目に見えるようになって喜ぶかもしれないけれど、すぐに邪魔になる。獣でさえ、自分の子供の面倒を見ることができるのに。人間は知的生物なんじゃあないのか。それじゃ、獣以下じゃないか。自分の子に愛を与えられないなんて、獣以下じゃないか。だから、そんな生き物が蔓延しているこの世がいやだ。
 あたしにはコンスタンティアがいるし、コンスタンティアにはあたしがいるから、どれだけ吐き気のする酷い世界になったとしてもこの場所なら生きていけるはずだけれど。
 あたしは人間で、賢くて、強い。あたしは愛を知る。でも、知るだけだ。
「アイちゃん。私ね、一度でいいから、アイちゃんに好きだって、愛してるって言われてみたい」
「どうして?」
「不安なのもあるけど。あなたの、とても可愛らしい声で愛してるって言われてみたいのよ」
 あたしはコンスタンティアの手をとる。いつも冷たい、氷の温度がする。
「今のあたしには言えない。あたしは迷っているから。あたしの気持ちがはっきりしたら、大人になったら、大きな声で言うよ」
「そ、う。ふふ。楽しみにしてる。でも、大きな声では恥ずかしいから、耳元に優しくしてちょうだい、アイちゃん……」
 いろんな考えが渦巻いて、あたしは冷や汗でセーラー服を濡らした。そうだ。あたしは考えやしなかった。あたしに対して優しくとも、コンスタンティアは悪魔であることを。
「コンスタンティア……」
 すっかり暗くなるまで居ついてしまった体育倉庫。マットの隣でキラキラと光の粒が現れると、それは、大きな女の形になる。緑色の肌、赤い角。コンスタンティアはあたしが好きだけど、あたしが寝ている間どうしているのか知らない。
「もしかして、だけど、コンスタンティア、お前は……」
 言うのに勇気がいるんだ。この関係が壊れるかもしれない、でも、真実を聞きたい。
「アイちゃん、どうしたの。アキラのこと? あれはよくないわ、これからあまり近づかないようにしないと……」
「コンスタンティア、おまえは、アザミに憑いていたか?」
 はっとして、緑の目を赤くする。狐憑きは狂ったことをしてしまったり、他者を傷つけようとするらしい。アザミの血筋はわからないが、橘の血筋が好かれやすいというだけで、この好かれやすいというのは、コンスタンティアもアキラも言っていた、死の匂いというものなのだろうけど。
「アイちゃん……。ふふ……、言ったほうがいいかしら……」
「言え。そうじゃなきゃ、……わかってるな?」
 コンスタンティアを脅しても、恐怖のひとつも湧かないだろう。予想どおり、コンスタンティアはいつものように、優しい笑みでこちらを見つめてくる。
「そうね。図書室で何度も見ていたけれど、あの子、アイちゃんのことずっと見てたの。私はアイちゃんのことが大好きだから、アイちゃんがどんな目で見られているかもわかるのよ。アザミはね、私の立場を奪ってしまいそうだった。だから、ま、聞こえるかどうかわからないけれど、会った時に耳元で呪いの言葉をささやいたわ。それに、アイちゃんの死のにおいも組み合わさったんでしょうね」
「この女、なんてことを!」
 カッとなって振り上げた右の拳でコンスタンティアの頬を殴った。冷たい感触、いつも触れている時とは違う、暖かくない冷たさ。
「アイちゃん、でもあの子の意志でもあったのよ。死にたいって思っていたわ。あんなことをしたあと死ぬのは、たぶん私のせいだけれど」
「あたしに何度も何度も、好きな人が見つかるといいとか言っていたくせに、やることはこれなのか。嘘吐きめ、おまえは悪魔なんだな。人間の真似事をした、ただの、悪魔だ!」
「違うわ。アザミは、女の子じゃない。男の子がいいわよ。アイちゃんを愛してくれる、男の子。アイちゃんの子を作れる男の子よ」
「おぞましいことを!」
 あたしの過去に何があったか知ってるくせに。あたしを弱らせて、甘えさせて、依存させるのが目的なのか? そうすることで、この悪魔は何かを得ているのか?
 あたしはコンスタンティアから逃げるように倉庫を出た。
「アイちゃん、待って、違うの。私は……」
 振り返らない。あたしは最初から、最後まで一人だった。それだけだった。何も変わらない。コンスタンティアなんて、悪魔なんていなかった。

 家に帰ると体が崩れ落ちて、玄関で大きな声を出して泣いた。あたしが信じていたのは、あたしを守ってくれたのは、あたしに愛をくれたのは誰だったのか思い出しながら。あたしは愛はわからない。でも、愛されていることを理解することはできた。そのお礼に、何かをすることもできる。あたしに愛はわからないけれど、あたしにとっては、コンスタンティアは牢獄から助けてくれたし、一人のあたしに優しく言葉をかけてなだめてくれる。コンスタンティアが不安定なときには、あたしが気遣って言葉をかけた。
 それは嘘じゃない。あたしの命を救ってくれたのは間違いなくコンスタンティアなのに、たくさんの優しさと愛をくれたのに、コンスタンティアは大人だから、単純な思考を持っていなかっただけだ。
 今更何もできない。アザミは死んだし、コンスタンティアはアザミに呪いをかけた。アザミに謝らねばならないのは、いじめていたクラスメイトでも、教師でもない。
 あたしだった。あたしだった。あたしだった。あたしが悪かった。あたしが居なければ、きっとアザミは強い子だから、そのままこの学校を卒業するとか、いまの状況を変えることができたはずだ。あたしは力がない。
 涙が止まらない。あたしが殺したんだ。コンスタンティアはあたしの支配下にあるけれど、自由にさせていたから。あたしの責任だ。人のいのちの責任があたしの背中にのしかかる。重くて、潰れそうで、このまま死んでしまいたいくらい。
 これまで見てきた死体はコンスタンティアのものによったり、自然の摂理だったり、本人の選択による自殺、どれかだと思っていた。あたしが殺したんだ。アザミは、あたしがいたから死んだんだ……。
「会って、謝らなきゃ……」
 よろよろと立ち上がった。許してもらえるとは思わない。あたしだっていくつも許せないことがあるし、それを引きずって今まで生きてきた。でも、友人にした最低の仕打ちに、謝らなくてはいられない。あたしはキッチンに立って、ぎらつく包丁を手に取る。
 あたしは悪い人間だから、アザミのいるところに行けるかわからないけれど、でも行く方法はこれしかわからない。いつも、料理をつくるもの。コンスタンティアとの日常。あたしが食べて、コンスタンティアは嬉しそうにあたしを見ている。
 泣いて、震えたまま、包丁の切っ先を自分に向けた。きっと痛いんだろうな。たくさん血が出て、死んでしまう。でも、アザミはもっと痛かったはずだ。悪魔に侵食されるこころ、飛び降りたマンションからの鋭い風。たなびくスカート。
 懺悔しながら左胸を一気に刺せば、あたしが行きたいところに行けるだろうか。息を飲む。震える手先。死にたくないよ。あたし、頑張ってここまで耐えて生きてきた。でも、死なないとアザミに会えない。
「アイちゃん!」
 緑の女が現れて、あたしから包丁をひったくる。あたしは唖然として、顔を涙で濡らしながら、しゃくりあげているだけだ。
「アイちゃん、落ち着いて。私がいるわ。なにも、そんなことする必要ないわよ。私がぎゅってしてあげる。そうしたらいつも、落ち着くでしょう?」
 あたしは体を引きずって逃げた。両手を広げる緑の悪魔から逃げた。
「あたしにしてきたこと、全部嘘で、演技だったのか?」
 緑の悪魔のことは見ない。背中でしか話したくない。涙で濡れたフローリングの床を、指で染み込ませる。
「違うわ! 私、アイちゃんのことが好きよ。この気持ちに嘘なんてないわ。アイちゃんのそばにいたいわ。アイちゃんの幸せを願っているの。アイちゃんの幸せは私の幸せよ」
「じゃあ、あたしの幸せを選ぶのはおまえなんだな」
「私はアイちゃんが必ず幸せになれるようにするわ」
「あたしは、おまえの幸せの価値観に付き合わせなくちゃいけないんだな」
 真っ暗な部屋。いつも二人でいた部屋。いまはひとりぼっちだ。
「不安なのよ。アイちゃんは愛や幸せを知らないもの。だから、勘違いして、嘘の幸せに走って行ってしまったら、また絶望するだけなのよ。私はそれを防いだだけだわ。アイちゃんに不幸になってほしくないのよ」
「あたしはいま、不幸で苦しい」
「あ、アイちゃん、アイちゃん。わかってちょうだい。私は憎くてしたんじゃないの。あの子と一緒にいて、アイちゃんもいじめられやしないか不安だった。そうしたら、私はたくさんの人間を殺さなくちゃならなくなるわ。それは避けたかったのよ」
 いままで優しかった言葉で、同じ声なのに、毒みたいだ。猛毒の塗られた口紅をつけて喋られているみたいだ。それだったらそのほうがいい、クラスメイトなんて人間じゃないんだから、いくら死んだって構いもしないし、悲しみもしないさ。そうしたらきっとアキラに殺されるだろうけど、アザミは生きている。アザミはこれから絶対にきらきらした人生を送れるはずだった。綺麗で、賢くて、優しくて可愛らしいんだ。
 あたしはこれから、この緑の悪魔とどう付き合っていけば良いだろう。一度抱いた不安や嫌悪感はなかなか薄れることはない。
「……アイちゃん。私、アイちゃんから離れるべきかしら?」
「おまえのそういう言葉を聞いてると、気が狂いそうだよ」
 あはは、なるほどね。こうやって橘は狂っていくのか。フローリングに体を倒した。もう疲れたし、動けない。今日はこのまま眠ろう。まさか暖かいベッドに入るなんて気分になれない。
「アイちゃん。私は、本当にアイちゃんのことが好きなのよ。信じてちょうだい……」
 聞こえないふりをする。悪魔の声は泣きそうだった。そのうちすべての音がなくなって、暗闇は紫色になる。太陽ののぼる場所。そこに二メートルの影はない。
 チャイムと、ぞろぞろと教室を離れる生徒たち。帰ったり、部活に行ったり、遊びに行ったりする。あたしはいつものように、コンスタンティアと、二人で暮らすアパートに帰るだけだ。正門は人が多くてまいるので、いつも裏門から帰ることにしている。グラウンドを抜けた先に、水色のペンキが剥がれかけた古い門。それを目指していると、後ろから声がかけられたのでびくりとして飛び上がった。
「橘」
 黒い髪の、黒い制服を着た、男子生徒のように思う。身長は百七十の中頃くらいで、すらっと手足は長い。コンスタンティアははっとして、あたしを守るように腕を出した。
 あたしは、この男子生徒が男ではないことを知っているし、それがアキラであることも知っている。昨日は暗くて気付かなかった。女子剣道部の主将で、二つ上の先輩。目つきは悪くぎらついている。胸は薄く、声もハスキーで低いものだから、言われなければ誰も女だとは思わないだろう。いつも女子からの黄色い声を受けていることも知っている。
「橘、時間あるか?」
「……何の用?」
 アキラは腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。
「おまえが知るべきであるのに、知らないことを伝えるために」
「わかった」
「ついてこい」
 そう言われて来たのは、体育倉庫だった。扉が開けられ、ほこりと、砂が舞い上がって咳き込む。コンスタンティアは相変わらず、アキラのことをずっと睨んでいた。
「ああ、すまないな。慣れないと、そうなるか。いや、ここは隠れたりふけるのに良くてね。ちょうど、具合が悪いがベッドもあるだろ」
 そう言って笑いながら指したのは、ぼろぼろの体育マットが重なったもの。そこに腰を下ろしたアキラは、隣に来るようにマットを叩いて促す。あたしはくしゃみをすると、昨日の敵意が嘘だったみたいに、アキラはからからと笑った。
「よし、狐憑きの話をしよう。橘の家系は代々、悪狐に好かれやすいんだ。それで妙なまねをしたり、精神が狂ってしまったりする。おまえの母親も、悪狐に憑かれていたのさ。そして、今のおまえもな」
「……狐? あたし、狐になんか憑かれてない」
 そう、いるのはコンスタンティアだけ。不思議に思うと、アキラは、アキラにとって何もないはずの場所を見た。
「なにも、狐だけとは限らないのさ。昔の人間が狐と言っただけでな、実際はいろんなかたちをしている。日本ではそうだが、外国では悪魔だとか、妖精だとか言われるのさ。今日はよく見えるよ、綺麗なお嬢さんがな?」
 ……コンスタンティアが、見える。コンスタンティアの術を破って目視できる人間。コンスタンティアは後ずさりした。
「あなた、おかしいわ……」
「おまえから見れば、そうだろうな。オレの存在が、不快なんだろう」
 憑かれた橘の人間を判断するのは、そういったものが見えるアキラの灰淵家。当たり前のことだ。そうでなければ、少しでもおかしい挙動を見せれば殺されてしまう。なかったことにされてしまう。
「どうしてあなたのような存在が、この世に許されているの?」
「はは。それはオレが聞きたいね。オレだって好きでこの家に生まれて血を流されているわけじゃあ、ないんだから」
 ……アキラは、人間ではないのか。コンスタンティアを見ると、コンスタンティアはあたしの頭を優しくなでる。
「アイちゃん。私、昔、あの人の子を孕んだと言ったわね?」
 はっとした。いや、そうか、でも、そうでなければ。そうならば。アキラの目が赤く光るのを見た。コンスタンティアも、たまに目をルビーのように光らせることがある。
「悪魔の子……」
 あたしがつぶやくと、アキラはにやりとする。
「まあ、直接じゃあない。ご先祖が交わっただけでな、だが、確かにオレにはそういったものの血が流れているさ。なあ、コンスタンティア」
「ええ。あなたは不浄よ。汚らわしいわ。私はそう思ったから、子供と子宮を王様に返したのよ」
「さて、どうする? 橘から離れれば、橘はおまえの罪をかぶることはない」
 あたしの心臓が高鳴るのを感じている。コンスタンティアがこんな、悪魔の子なんかに負けるわけがない。その赤い血で、柔らかい人の肉なんて切り裂いてしまえる。コンスタンティアは殺さないだろう。これからのこと、あたしのことを考えるはずだ。
 ここでアキラが死ねば、あきらかにあたしがおかしいと大勢にわかる。これまで橘は灰淵に守られて生きてきたという。
 あたしは両親から離れたあと、母方のおじいちゃんにしばらくは面倒を見てもらっていた。あたしの心や、体の傷を見ておじいちゃんは悲しんだ。それから、あたしは一人になりたいと言うと、近くに小さなアパートを借りてくれた。一週間に一度は、顔を見せてくれる。おじいちゃんはきっと、お母さんが狂ってしまったことを後悔しつつも恐怖して、あたしをこの地においたに違いない。深泥池、いくつもの屍が沈む、橘と灰淵の地。
 アキラが死ねば、おじいちゃん、その他の橘の血筋の人間が苦しむことを。アキラは見抜いているのかもしれない。
「……私は、アイちゃんから離れない。アイちゃんには私が必要だし、私にもアイちゃんが必要よ。あなたに首を突っ込まれてとやかく言われたくないの。お別れをするなら二人で決めて、話し合うわ」
 コンスタンティアは威嚇をするように歯をむき出しにするが、直接の行為に出ようとはしない。アキラはまた、馬鹿にしたように笑う。アキラはまるで、全てを投げ出して、いらないみたいに見える。今ここで死んでも構わない、というくらいの、強気。自分を襲うかもしれない鋭い痛みでさえ、気にしないような。
「まあ、そう言うだろうね。居心地がたいそう、いいだろう。オレも完全に悪魔だったのなら、橘に憑いていたかもしれないな。いい香りがするよ、死の匂いが。おまえが歩くたびに、いろんなものが死んでいくのさ。橘、藤寺アザミのことは知っているだろう。あの綺麗な子。マンションの三十階から身投げして死んだ。最初に見たのは、おまえだったそうだな」
「そんな、まさか、アザミが死んだのはあたしのせいだって?」
 アザミの気持ちを知っている。アザミを殺したのはあの悪意とたんぱく質の塊たちで、あたしとアザミとの間は短い間だったけれど、人間と人間として付き合いをしたのだ。
「直接じゃあ、ないさ。でも、おまえの匂わせる死の香りが、アザミを死に急がせたんだろうさ」
「そんなはずない!」
「そうだな、おまえが存在することで、落ちそうだったアザミの背中を押しただけさ。落ちたのはアザミだ。おまえが落としたんじゃあない。だが、おまえの存在はな、死の淵にいる人間をいとも簡単に殺してしまうのさ」
 嘘。嘘だ。あたしは池でいくつも見届けたんだ。そのあとは知らないけど、でも、それでも、あたしはただの興味だったけれど、死に触れてみたいけれど、死を与えようとは思っていない。息がし辛くなっていく。目の前が黒と白でちかちかして、自分が責められることにいくつもの嫌なことを写真で突きつけられていくみたいに移り変わっていく。死体と血と、あたしの血を。
「おまえに、死ねとは言わないよ。オレはな。だが、コンスタンティア、橘の死の香りをおまえも受けているだろう」
 頭を抱えるあたしを、コンスタンティアは抱きしめる。柔らかくて冷たい胸と、臓器の鼓動と息遣い。あたしが落ち着ける場所。
「否定はしないわ。私はアイちゃんの心も、姿も、そしてその死の香りが好きよ。大好きよ。愛してるわ。アイちゃんが私といると不幸になるって、アイちゃんが言うのなら私は離れるわよ。でも……」
「コンスタンティア……」
 胸の中で名前を呼んだ。離れたくないよ。そばにいてほしい。あたしを守って。あたしが大人になるまでを見届けてよ。あたしは不幸な目にあったんだから、あたしは踏み潰されて泣いて生きてきたんだから、少しは他人のことなんて無視して幸せな気持ちに浸りたいの。
「いずれ、おまえのような弱い悪魔は消え去るだろうさ。正しいものの手によってな。それで橘が狂うのなら、ま、母親のように硬い鉄の部屋で一生を泣き叫んで暮らせばいいのさ」
「嫌な女ね、あなた。心があるのか、心配になるくらいよ」
「あるさ。今は必要ないだけだ。悪魔のおまえなんかより、ずーっと人間のことを知っているし、それにオレは人間だからな。言うことは言った。せいぜい、大人しくしてるんだな。橘の死の香りに免じて、オレがうまくやってやるからよ」
 体育倉庫の扉が開いて、夕日が差し込んでくる。ちらりとコンスタンティアの胸から顔をどけると、今までの馬鹿にしたような、生意気な、そんな印象をもたせたアキラがあたしに優しく微笑んだのが見えた。そして、ゆらゆら手を振って歩いていく。コンスタンティアにバレないように。悟られないように、そのスキを狙っていたみたいだった。
「アイちゃん。今日は美味しいものを食べて、おもしろいテレビを見ましょう。それから一緒にお風呂に入って、お散歩して、一緒に寝ましょうね。心を乱されたでしょう? 本当、嫌だわ。私のアイちゃんに、私の大好きなアイちゃんにあんなひどいことを言うなんて……」
「……あたし、少しだけ、一人で考えてみてもいい?」
「え、あ、アイちゃん。それなら、私は離れているわ。ずっとべったりなんて、アイちゃんも疲れちゃうわよね。私が私がって、そればかりだったわ。アイちゃんは、人間だものね。また、私が来てよくなったら呼んでちょうだい。私はいつでも、アイちゃんの味方だから……」
 グラウンドの砂に足跡が残っている。本当の男の物よりは、小さめの靴。小汚いベッドに体をまかせる。コンスタンティアは、光の粉になって消えていってしまった。あたしが、ひとりぼっちになる。二人の赤い瞳が、あたしを見つめていた。


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