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深夜の二時ごろに、家からライターとアロマキャンドルを持ち出し、コンビニでアイスと、コーラを買う。大きな丸い月の下で、チカチカ切れかけた街灯に群がる蛾を笑い飛ばしながら、クロックスでアスファルトを跳ね回る。
夜の深泥池では、たまに見れるものがある。自殺、だ。深泥池は、それ自体は何の変哲もない、ただ緑の汚い水が波打っているだけだ。しかしどうやら、自殺をするのにここを選ぶ人間が多い。それを止めてみたり、止めなかったりする。大人ならそこまで追い込まれての判断だろうし止めないけれど、子供なら、わかってくれそうなら止めてみたりする。少し話を聞いてお菓子を食べれば、たいていは落ち着いて帰っていく。その日は落ち着いただけで、あらためて死んでいるのかもしれないけれど。
深泥池の不気味な緑と、異臭は、大量の屍が沈んでいるからかもしれない。水死体をみたことがある。髪の毛がすっかりながれて、水でぱつぱつに膨れ上がった体は、人間はこうも、水の中に居続けるだけで変われるものなのだと感心したのを覚えている。
あたしは別に、良いことをしているとは思わない。その人間がどうして死にたいまでの気持ちになって、池に飛び込もうとするかの、単純な好奇心だ。たいていは、あたしが経験したことのほうが辛くて悲しいけれど、その辛さの許容量は人によって違うのだから、そういったことは言わない。でも、両親からの慈愛を十分に受けている人間が死のうとすると、悲しい気持ちになる。この人が死んだら、悲しむ人が二人はいるのに。
愛されて育った人間は、まともだ。愛されなければ、愛を感じられなければ人間は狂って、死んでしまうんだ。
いつもの木陰でキャンドルに火をつけて、コンスタンティアといると、池にやってくる人間がいる。身長からして、男性だろうか。そろそろと近づくと、その男性はこちらに気づいた。びくっとして、あたしが小さな女の子にもかかわらず、すこし構える。が、すぐにあたしの姿を確認して、体勢をもどした。男はスキニーのジーンズにスタジャンといった格好で、十代の後半ごろに見える。黒い髪で、なぜだか、片目を隠すようにしていた。
「なんだ、橘のアイか。なぜ、こんな所に?」
名前を知られている。この人は誰? 後ずさりして答える。
「そ、う、だ。あたしは橘アイ。おまえは?」
「……そうか、知らないか。オレは灰淵アキラ。アキラでいい」
「どうしてあたしを知ってる?」
「それは、オレたち灰淵家が、橘家のやることをすべて隠してきたからだ。ずっと昔からそういう関係だった。おまえが両親を殺した……、ああ、片方が生きているんだっけ? そこまで騒がれずにしたのはオレたちさ」
「あたしが殺したんじゃない!」
強く叫ぶが、アキラは引かない。
「ああ、そうさ、橘はそう言う。おまえの母親だってそうだったさ。まあ、いまは見放されてただの猿と化しているようだがな」
隣にいるコンスタンティアは、あたしの後ろに立って肩に触れる。
「怖いわ、アイちゃん。でも。いざとなったら、あたしが……」
「だめだ、コンスタンティア、そうなったら……」
その言葉にアキラはにやりとした。コンスタンティアとの会話ににやりとした。
「コンスタンティア? そこに誰かいるのか? いないよな? どうした、気でもふれたか?」
馬鹿にするように大きな声で笑った。
「いいか、橘。おまえの家は、昔は、悪人をここで処刑していたんだ。この土地を統括するものとしての責任だ。しかし、いつからか快楽のためや、自分のために、他人のために殺すようになった。そうなった、キチガイは灰淵の手で消さなければならない。その池に沈めて、な」
「あたしは殺してなんかないったら……」
「アイちゃん……」
アキラが隠し持っていたのか、ナイフを取り出した。切っ先をあたしに向けると。とっさにコンスタンティアはナイフを無理やり奪おうとアキラに組みつく。
「な、なんだこれは……。橘、やめろ!」
「コンスタンティア!」
あたしの声は聞きいられない。コンスタンティアはアキラからナイフをもぎとると、池に投げ捨ててしまう。ぽつり、と立ったアキラ。
「やはり、おまえは……。……これはうちヘ持ち帰る」
そう言って、去っていく。コンスタンティアが追おうとするのを、あたしが止めた。
「コンスタンティア。あたしたち、うちの家のこと、あの人の家のことを知らない。やめよう。あと、聞きたいことがある」
コンスタンティアは震えながら、二メートルもある体を子犬みたいに震わせて、あたしが真実を言うのに怯えているようだった。
「あたしが知らないところで、人を殺していたんだな?」
「そ、う、よ……」
「どうして?」
「抑えられないの。衝動を。アイちゃんを守りたい。アイちゃんのことが好き。でもどうしても、私って、悪魔なんだわ。人のいのちを食らっていなければ落ち着けないの。私はアイちゃんの前では優しくて頼れる大人でありたかったわ……」
あたしだって、そうだ。人が死んで生かされている。動物が死んで生かされている。コンスタンティアの手によって生かされている。その手が血にまみれていても、コンスタンティアが優しいことに変わりはない。
「あたしはそんなことで、コンスタンティア、おまえのことを見放さない。邪魔じゃない。必要だ」
「こんな、私でも、いいの……」
「また、そんな今更なことを言うのか。殺してもいいなんて、人間のあたしからは言えない。でも、言い方を変えよう。コンスタンティア、おまえといたい。生きているおまえと触れ合っていたいんだ。そのために必要なことがあるのなら、なんでもするといい。罰はあたしも受ける。許したのはあたしだから。死ぬのなら、一緒に死のう」
崩れるように座り込むコンスタンティアの背中に、腕を回そうとするが十分にできない。コンスタンティアも、強くはないが、優しくそれを返すように抱く。
「アイちゃん。好きよ。大好き。こんな言葉で表現するのも嫌になるくらいよ。醜いし、私は汚いの。でも、そばに置いてくれてありがとう……」
「それでもいい。あたしはおまえのことが綺麗だと思うけれど、そういう否定をおまえが望んでいないのはわかってる。さっき、あたしの声で殺すのを止めたろ。なら、いいんだ。あたしの声が届く間なら、まだどこまでだって良い方向にいけるはずだから」
柔らかな髪。じっとりとした池の水のにおい。足をくすぐる雑草たち。虫の声はひとつもしない。池の魚もただ静かにあたしたちを見ているみたいに。
今、世界はここだけだった。あたしがコンスタンティアに触れる。コンスタンティアがあたしに触れる。コンスタンティアは愛の言葉をいくつも囁いて、あたしはそれを受け止める。いつものことで、何も変わりはしない。アロマキャンドルのうっすらとした香り。十メートルもないこの空間が、いま、あたしたちの全世界。本当の世界から切り離されて、お互いを見つめあう。
「アイちゃん、アイちゃん、私、接吻がしたいわ」
「キスか?」
「ええ、別にあの人と重ねているわけではないの。唇と唇なら、アイちゃんと本気で触れ合えるかと思ったの。でも、人間にとって接吻が特別なものなのは知ってるし、私はこれまでそういうことは私としてはいけないと言ったわ。でも、それでも、私、私は、アイちゃんに本当に、伝えたいの。アイちゃんのことが、大好きだって表現したいのよ。私って、わがままね。嫌だわ、嫌になるの。私、私のことがどんどん嫌いになっていくの」
「コンスタンティア。それは、ずるい」
「アイちゃん……」
まだ、抱き合ったまま。世界は十メートルのまま。
「そうやって弱みを見せて、キスをねだるのはずるいよ。あたしに何度も、おまえがそう言ったように、人間と幸せになるためにとっておけって言うくせに。それは自分勝手で、いけない。だからあたしはキスを許可しない。無理矢理するなら、すればいい。あたしは許可しないだけだ。おまえにはその力があるだろ」
そう言った瞬間、コンスタンティアの手が離れて、地面に強く押し倒される。ぞわり、と。背中を死が舐める。コンスタンティアはあたしの腕を押し付けて、じっと顔を見る。鼻と鼻とがぶつかり合うような距離まで。
「あたしは、暴れても逃げることはできない」
そっと、コンスタンティアの唇が近づいてくる。あたしは騒がない。ただこの状況に喜ぶことも落胆することもない。
「……ごめんなさい」
唇は頬に優しく触れた。いつもするものと、同じもの。それからコンスタンティアはあたしから離れて、池を見た。
「たくさんの死体を、ここに落としたわ」
「言ってくれて良かったよ、コンスタンティア」
死を望む。背中を押す。悪いことなのかわからない。その前にたくさんの痛みと苦しみを味あわせると、生きることへの欲望が、苦しみから解き放たれたいという欲望が湧いてくる。
コンスタンティアは悪ではない。あたしはそう信じている。他の誰がどう思おうとも、あたしだけは、コンスタンティアを信じている。これまで見てきた沢山の死体を思い返して。
夜の深泥池では、たまに見れるものがある。自殺、だ。深泥池は、それ自体は何の変哲もない、ただ緑の汚い水が波打っているだけだ。しかしどうやら、自殺をするのにここを選ぶ人間が多い。それを止めてみたり、止めなかったりする。大人ならそこまで追い込まれての判断だろうし止めないけれど、子供なら、わかってくれそうなら止めてみたりする。少し話を聞いてお菓子を食べれば、たいていは落ち着いて帰っていく。その日は落ち着いただけで、あらためて死んでいるのかもしれないけれど。
深泥池の不気味な緑と、異臭は、大量の屍が沈んでいるからかもしれない。水死体をみたことがある。髪の毛がすっかりながれて、水でぱつぱつに膨れ上がった体は、人間はこうも、水の中に居続けるだけで変われるものなのだと感心したのを覚えている。
あたしは別に、良いことをしているとは思わない。その人間がどうして死にたいまでの気持ちになって、池に飛び込もうとするかの、単純な好奇心だ。たいていは、あたしが経験したことのほうが辛くて悲しいけれど、その辛さの許容量は人によって違うのだから、そういったことは言わない。でも、両親からの慈愛を十分に受けている人間が死のうとすると、悲しい気持ちになる。この人が死んだら、悲しむ人が二人はいるのに。
愛されて育った人間は、まともだ。愛されなければ、愛を感じられなければ人間は狂って、死んでしまうんだ。
いつもの木陰でキャンドルに火をつけて、コンスタンティアといると、池にやってくる人間がいる。身長からして、男性だろうか。そろそろと近づくと、その男性はこちらに気づいた。びくっとして、あたしが小さな女の子にもかかわらず、すこし構える。が、すぐにあたしの姿を確認して、体勢をもどした。男はスキニーのジーンズにスタジャンといった格好で、十代の後半ごろに見える。黒い髪で、なぜだか、片目を隠すようにしていた。
「なんだ、橘のアイか。なぜ、こんな所に?」
名前を知られている。この人は誰? 後ずさりして答える。
「そ、う、だ。あたしは橘アイ。おまえは?」
「……そうか、知らないか。オレは灰淵アキラ。アキラでいい」
「どうしてあたしを知ってる?」
「それは、オレたち灰淵家が、橘家のやることをすべて隠してきたからだ。ずっと昔からそういう関係だった。おまえが両親を殺した……、ああ、片方が生きているんだっけ? そこまで騒がれずにしたのはオレたちさ」
「あたしが殺したんじゃない!」
強く叫ぶが、アキラは引かない。
「ああ、そうさ、橘はそう言う。おまえの母親だってそうだったさ。まあ、いまは見放されてただの猿と化しているようだがな」
隣にいるコンスタンティアは、あたしの後ろに立って肩に触れる。
「怖いわ、アイちゃん。でも。いざとなったら、あたしが……」
「だめだ、コンスタンティア、そうなったら……」
その言葉にアキラはにやりとした。コンスタンティアとの会話ににやりとした。
「コンスタンティア? そこに誰かいるのか? いないよな? どうした、気でもふれたか?」
馬鹿にするように大きな声で笑った。
「いいか、橘。おまえの家は、昔は、悪人をここで処刑していたんだ。この土地を統括するものとしての責任だ。しかし、いつからか快楽のためや、自分のために、他人のために殺すようになった。そうなった、キチガイは灰淵の手で消さなければならない。その池に沈めて、な」
「あたしは殺してなんかないったら……」
「アイちゃん……」
アキラが隠し持っていたのか、ナイフを取り出した。切っ先をあたしに向けると。とっさにコンスタンティアはナイフを無理やり奪おうとアキラに組みつく。
「な、なんだこれは……。橘、やめろ!」
「コンスタンティア!」
あたしの声は聞きいられない。コンスタンティアはアキラからナイフをもぎとると、池に投げ捨ててしまう。ぽつり、と立ったアキラ。
「やはり、おまえは……。……これはうちヘ持ち帰る」
そう言って、去っていく。コンスタンティアが追おうとするのを、あたしが止めた。
「コンスタンティア。あたしたち、うちの家のこと、あの人の家のことを知らない。やめよう。あと、聞きたいことがある」
コンスタンティアは震えながら、二メートルもある体を子犬みたいに震わせて、あたしが真実を言うのに怯えているようだった。
「あたしが知らないところで、人を殺していたんだな?」
「そ、う、よ……」
「どうして?」
「抑えられないの。衝動を。アイちゃんを守りたい。アイちゃんのことが好き。でもどうしても、私って、悪魔なんだわ。人のいのちを食らっていなければ落ち着けないの。私はアイちゃんの前では優しくて頼れる大人でありたかったわ……」
あたしだって、そうだ。人が死んで生かされている。動物が死んで生かされている。コンスタンティアの手によって生かされている。その手が血にまみれていても、コンスタンティアが優しいことに変わりはない。
「あたしはそんなことで、コンスタンティア、おまえのことを見放さない。邪魔じゃない。必要だ」
「こんな、私でも、いいの……」
「また、そんな今更なことを言うのか。殺してもいいなんて、人間のあたしからは言えない。でも、言い方を変えよう。コンスタンティア、おまえといたい。生きているおまえと触れ合っていたいんだ。そのために必要なことがあるのなら、なんでもするといい。罰はあたしも受ける。許したのはあたしだから。死ぬのなら、一緒に死のう」
崩れるように座り込むコンスタンティアの背中に、腕を回そうとするが十分にできない。コンスタンティアも、強くはないが、優しくそれを返すように抱く。
「アイちゃん。好きよ。大好き。こんな言葉で表現するのも嫌になるくらいよ。醜いし、私は汚いの。でも、そばに置いてくれてありがとう……」
「それでもいい。あたしはおまえのことが綺麗だと思うけれど、そういう否定をおまえが望んでいないのはわかってる。さっき、あたしの声で殺すのを止めたろ。なら、いいんだ。あたしの声が届く間なら、まだどこまでだって良い方向にいけるはずだから」
柔らかな髪。じっとりとした池の水のにおい。足をくすぐる雑草たち。虫の声はひとつもしない。池の魚もただ静かにあたしたちを見ているみたいに。
今、世界はここだけだった。あたしがコンスタンティアに触れる。コンスタンティアがあたしに触れる。コンスタンティアは愛の言葉をいくつも囁いて、あたしはそれを受け止める。いつものことで、何も変わりはしない。アロマキャンドルのうっすらとした香り。十メートルもないこの空間が、いま、あたしたちの全世界。本当の世界から切り離されて、お互いを見つめあう。
「アイちゃん、アイちゃん、私、接吻がしたいわ」
「キスか?」
「ええ、別にあの人と重ねているわけではないの。唇と唇なら、アイちゃんと本気で触れ合えるかと思ったの。でも、人間にとって接吻が特別なものなのは知ってるし、私はこれまでそういうことは私としてはいけないと言ったわ。でも、それでも、私、私は、アイちゃんに本当に、伝えたいの。アイちゃんのことが、大好きだって表現したいのよ。私って、わがままね。嫌だわ、嫌になるの。私、私のことがどんどん嫌いになっていくの」
「コンスタンティア。それは、ずるい」
「アイちゃん……」
まだ、抱き合ったまま。世界は十メートルのまま。
「そうやって弱みを見せて、キスをねだるのはずるいよ。あたしに何度も、おまえがそう言ったように、人間と幸せになるためにとっておけって言うくせに。それは自分勝手で、いけない。だからあたしはキスを許可しない。無理矢理するなら、すればいい。あたしは許可しないだけだ。おまえにはその力があるだろ」
そう言った瞬間、コンスタンティアの手が離れて、地面に強く押し倒される。ぞわり、と。背中を死が舐める。コンスタンティアはあたしの腕を押し付けて、じっと顔を見る。鼻と鼻とがぶつかり合うような距離まで。
「あたしは、暴れても逃げることはできない」
そっと、コンスタンティアの唇が近づいてくる。あたしは騒がない。ただこの状況に喜ぶことも落胆することもない。
「……ごめんなさい」
唇は頬に優しく触れた。いつもするものと、同じもの。それからコンスタンティアはあたしから離れて、池を見た。
「たくさんの死体を、ここに落としたわ」
「言ってくれて良かったよ、コンスタンティア」
死を望む。背中を押す。悪いことなのかわからない。その前にたくさんの痛みと苦しみを味あわせると、生きることへの欲望が、苦しみから解き放たれたいという欲望が湧いてくる。
コンスタンティアは悪ではない。あたしはそう信じている。他の誰がどう思おうとも、あたしだけは、コンスタンティアを信じている。これまで見てきた沢山の死体を思い返して。
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いくつもの大きくて分厚い手があたしに触れる。肉がついて、ふっくらして、濃い体毛の目立つ汚らしい手。あたしはそれがいけないことだと知らない。あたしはただ、埋まらないこころの溝を、子供なりにどこかで埋めようとしているだけだった。その深い意味を知らなかった。女の子は、簡単に人に体を触らせてはいけないこと。
白いシーツに全てを投げ出している。いくつかのおぼろげな楽しい記憶、たくさんの悲しい出来事、目を瞑れば怖くない暗闇が待っているから。あたしは知らなかった。あたしは知ることができなかった。ベッドの中で悲鳴をあげていた。あたしが知らないことを、大人は笑う。教えてくれない、それを大人は食い物にするから。あたしが知らないことで、何人かの酷い大人は欲を吐き出すことができる。あたしの屍の上に。積み重なるようにして、あたしの小さな体にのし掛かって背負う。怒鳴りつける。あたしは涙をこらえて、何もまとわずに歩くしかない。この世で、罪を引きずっていることも知らないまま。
脱衣所に、コンスタンティアが立っている。あたしの体を髪の毛の一本から、足の小指まで眺める。掛け湯をしてすぐに湯船に浸かると、コンスタンティアが入ってきて、風呂のタイルの上に腰を下ろした。
「もう、使うタオルが増えるだろ」
「いいわよ、アイちゃんが使ったあとので」
はあ、とため息をついた。そんなんじゃ、拭く意味がない。
「どうして風呂の三十分くらいも、大人しく待てないんだ」
「アイちゃんのことが好きよ。アイちゃんの体はとっても、綺麗だから、今日のアイちゃんを目に焼き付けて覚えておきたいの」
「どこがだよ……」
綺麗なんかじゃない、背中には大きなケロイドがある。母親がやったものだったかな、この間会いに行ったときは、ぎゃあぎゃあと叫びまわるんで檻の部屋に入れられていた。小さな小窓から、自分の母親が動物園の猿と同じような扱いを受けているのを、ざまあみろなんて笑えればよかったけれど。複雑だった。だって酷いことをしたかもしれないけれど、あたしを産んだのは間違いなくあの人だから。
見ないようにするなんてできない。あたしが背負う罪。知らなかった罪を、強く認識する。
「アイちゃん、ごめんなさいね、私はアイちゃんがうんと小さなころから、ときどき様子を見ていたわ。だってアイちゃんは、悪魔の好む香りがするから、それにこんな可愛らしい子が、悪い悪魔に捕まって酷い目に合うなんて許せなかったから。でも、人間に干渉することは、あまりよくないことなの……。いろんなことを、早く決断して、止められればよかったわ……」
「知ってるんだろ。あたしの人生に何があったか」
「ええ……」
「じゃあ、綺麗な体なんて言えるはずない」
「綺麗よ。他の人が、アイちゃんがどう思おうとも。私は綺麗だと思う。汚されてしまったことも、背中のケロイドや残ってる傷跡も、全部全部含めてアイちゃんが好きで綺麗よ。今のアイちゃんが好きよ」
体に刻まれた見える傷跡も、見えない傷跡も、大人からつけられたものだ。大人は嫌い。大きな声を立てて、怒鳴りつけて、暴力を振るう。話してもわかってくれない、許してもらえない。満足するまでいたぶったら、それで終わり。
大人たちの罪は重い。捕まって、裁判で刑を受ける。あたしの罪は知らないままだ。あたしと、コンスタンティア以外は誰も。裁かれることはなく、ただただ、あたしの記憶の中にある罪の意識とあきらめ、許してほしいと願う声。
コンスタンティアの好きよ、は、もう聞き飽きたくらい。何回言わなくてももうわかりきっているのに、言いたくて表現したくて仕方がないんだろうと思った。コンスタンティアは、大人だけど、大人じゃない。
「あたしはきっと、呪われる」
あたしのしてきたこと。実際に手を下したことはない。感情が昂ぶったコンスタンティアが血にまみれるのを、あたしは罪を抱いて見ているだけだ。あたしが血をかぶったことはない。
「誰にも、しあわせになる、権利ってあるんだよな」
「もちろんよ。どんな悪人でも、罪を認めれば、この世でなくても、幸せになれるわ。それにしあわせになる権利なんて、ないわよ。なっていいの、誰でも。他人の人生が誰より幸せだって、妬むなんて無駄な罪の積み重ねでしかないわ。その罪は、いつか罰になって自分に降りかかってくるの」
あたしが憎い人たちが幸せになって、あたしはそれを許すことができる? 笑って、楽しくしているのを、あたしは受け止めて、その人の人生なんだからと関係を断つことはできるのか。
されたことは全て覚えてる。痛かったこと、悲しかったこと、つらかったこと、いまはわかるけれど、小さなころはわからなかった、酷くて醜くてむごい仕打ち。あたしがその罪から解き放たれて、全てを許せる時がきたら、大人になれるのか。感情を捨てて、醜い大人の一人になっていくのか。
「無理をしないで。ゆっくりでいいの。いまはただ、二人で楽しくしていましょう。許せないことだって悪いことじゃないんだから。許せないなら許せないままでいいの。だってそれが当たり前よ。ごめんなさいって謝られても、お金を積まれても、それだけで終わりにされるなんて許せないものね。でもいつかきっと、記憶が和らぐの。だからその手助けを、私はしたいわ」
湯船に潜って、それからすぐに出る。少し待って、考えるだけだった。
「この世界におまえとあたしの二人なら、誰も憎むことなんてしなくていいのに」
そうしたら、大人にならずにコンスタンティアのそばにいる。時間は進まない。ただあたしの体が成長から老いになるだけで。
「少なくとも、この空間はそうよ。他のことなんて、ここでは忘れてしまいましょ」
ゆらゆらと、たちあがる湯気。水音だけが響いて、はっ、と声を出した。ああ、あたしは一体何をしていたのか。目が覚めたみたいだ。両手を見る。白い手。汚れてはない。あたしの手は、汚れていないし、これからも汚れない。
あたしがコンスタンティアを許す。コンスタンティアがあたしを許す。不安になってコンスタンティアに手を伸ばすと、コンスタンティアは確かにそこに存在していた。鏡には見えないけれど、あたしの目に見えて、触れられるならそれでいい。
大人にされた酷いこと、酷いこと、同じようなことをコンスタンティアにされたらどう思うだろう、と考えた。あたしは許すどころか、嬉しい気持ちになると思う。どれだけ痛めつけられたって、あたしはコンスタンティアの想いを知っているから。きっとコンスタンティアはそんなことはしないけど、そうやって愛を表現するのなら、あたしは受け止めて、許したい。そこに悲鳴や罵声はなくて、ただ女二人の息遣いがあるだけなら。もしもの、話だけれど。コンスタンティアがそうしなくてはいてもいてられなくなって、あたしに爪を食い込ませ、腸を引きずり出すのなら、それはもう、甘い痛みなのだと思う。
死の淵で感じるのはいろんな快感だった。息ができなくなって、はくはくと死にかけの金魚みたいに、ありもしない水面に手を伸ばす。脳から酸素が消えていって、命にすがる気持ちと、なぜか体が気持ち良くなる。死に触れかけている興奮、と言えばいいだろうか。触れてはいけないものに触れかけて、死が見える自分だけの喜び。
「他の誰かなんて、好きになれるのかなあ……」
「アイちゃん。大丈夫よ。きっとアイちゃんは、他人の罪も背負おうとするのでしょうね。そんなことしなくていいのよ。それは愛ではないわ。罪は自分で受けるものよ。でも、私には、背負わせてもらってもいいかしら」
「え、コンスタンティア、それは……」
「違うわよ。ふふ。私は強いから、アイちゃんが好きだから、きっとアイちゃんの罪だって背負えるし、その罪はふつうの子どもが背負うべきのものではないから。私はアイちゃんを、ふつうの子どもにしてあげたいだけなの」
「ふつうの子どもって、何なんだ……?」
「愛をめいっぱい受けて育つのよ。それだけ。私がこれからそうしたいの。アイちゃんは私に反抗だってしていい。私はそれでいなくなることはないから」
知らないことの幸せと、罪。知らなければよかった、知っていれば避けられる。あたしはこれから、長い時間をかけて、失った子ども時代をやり直していくのだ。やわらかな土にもう一度種をまく。今度はきっと、咲いてみたい。踏み潰されずに。悪意のある手足や声から、守ってくれるひとがいる。
白いシーツに全てを投げ出している。いくつかのおぼろげな楽しい記憶、たくさんの悲しい出来事、目を瞑れば怖くない暗闇が待っているから。あたしは知らなかった。あたしは知ることができなかった。ベッドの中で悲鳴をあげていた。あたしが知らないことを、大人は笑う。教えてくれない、それを大人は食い物にするから。あたしが知らないことで、何人かの酷い大人は欲を吐き出すことができる。あたしの屍の上に。積み重なるようにして、あたしの小さな体にのし掛かって背負う。怒鳴りつける。あたしは涙をこらえて、何もまとわずに歩くしかない。この世で、罪を引きずっていることも知らないまま。
脱衣所に、コンスタンティアが立っている。あたしの体を髪の毛の一本から、足の小指まで眺める。掛け湯をしてすぐに湯船に浸かると、コンスタンティアが入ってきて、風呂のタイルの上に腰を下ろした。
「もう、使うタオルが増えるだろ」
「いいわよ、アイちゃんが使ったあとので」
はあ、とため息をついた。そんなんじゃ、拭く意味がない。
「どうして風呂の三十分くらいも、大人しく待てないんだ」
「アイちゃんのことが好きよ。アイちゃんの体はとっても、綺麗だから、今日のアイちゃんを目に焼き付けて覚えておきたいの」
「どこがだよ……」
綺麗なんかじゃない、背中には大きなケロイドがある。母親がやったものだったかな、この間会いに行ったときは、ぎゃあぎゃあと叫びまわるんで檻の部屋に入れられていた。小さな小窓から、自分の母親が動物園の猿と同じような扱いを受けているのを、ざまあみろなんて笑えればよかったけれど。複雑だった。だって酷いことをしたかもしれないけれど、あたしを産んだのは間違いなくあの人だから。
見ないようにするなんてできない。あたしが背負う罪。知らなかった罪を、強く認識する。
「アイちゃん、ごめんなさいね、私はアイちゃんがうんと小さなころから、ときどき様子を見ていたわ。だってアイちゃんは、悪魔の好む香りがするから、それにこんな可愛らしい子が、悪い悪魔に捕まって酷い目に合うなんて許せなかったから。でも、人間に干渉することは、あまりよくないことなの……。いろんなことを、早く決断して、止められればよかったわ……」
「知ってるんだろ。あたしの人生に何があったか」
「ええ……」
「じゃあ、綺麗な体なんて言えるはずない」
「綺麗よ。他の人が、アイちゃんがどう思おうとも。私は綺麗だと思う。汚されてしまったことも、背中のケロイドや残ってる傷跡も、全部全部含めてアイちゃんが好きで綺麗よ。今のアイちゃんが好きよ」
体に刻まれた見える傷跡も、見えない傷跡も、大人からつけられたものだ。大人は嫌い。大きな声を立てて、怒鳴りつけて、暴力を振るう。話してもわかってくれない、許してもらえない。満足するまでいたぶったら、それで終わり。
大人たちの罪は重い。捕まって、裁判で刑を受ける。あたしの罪は知らないままだ。あたしと、コンスタンティア以外は誰も。裁かれることはなく、ただただ、あたしの記憶の中にある罪の意識とあきらめ、許してほしいと願う声。
コンスタンティアの好きよ、は、もう聞き飽きたくらい。何回言わなくてももうわかりきっているのに、言いたくて表現したくて仕方がないんだろうと思った。コンスタンティアは、大人だけど、大人じゃない。
「あたしはきっと、呪われる」
あたしのしてきたこと。実際に手を下したことはない。感情が昂ぶったコンスタンティアが血にまみれるのを、あたしは罪を抱いて見ているだけだ。あたしが血をかぶったことはない。
「誰にも、しあわせになる、権利ってあるんだよな」
「もちろんよ。どんな悪人でも、罪を認めれば、この世でなくても、幸せになれるわ。それにしあわせになる権利なんて、ないわよ。なっていいの、誰でも。他人の人生が誰より幸せだって、妬むなんて無駄な罪の積み重ねでしかないわ。その罪は、いつか罰になって自分に降りかかってくるの」
あたしが憎い人たちが幸せになって、あたしはそれを許すことができる? 笑って、楽しくしているのを、あたしは受け止めて、その人の人生なんだからと関係を断つことはできるのか。
されたことは全て覚えてる。痛かったこと、悲しかったこと、つらかったこと、いまはわかるけれど、小さなころはわからなかった、酷くて醜くてむごい仕打ち。あたしがその罪から解き放たれて、全てを許せる時がきたら、大人になれるのか。感情を捨てて、醜い大人の一人になっていくのか。
「無理をしないで。ゆっくりでいいの。いまはただ、二人で楽しくしていましょう。許せないことだって悪いことじゃないんだから。許せないなら許せないままでいいの。だってそれが当たり前よ。ごめんなさいって謝られても、お金を積まれても、それだけで終わりにされるなんて許せないものね。でもいつかきっと、記憶が和らぐの。だからその手助けを、私はしたいわ」
湯船に潜って、それからすぐに出る。少し待って、考えるだけだった。
「この世界におまえとあたしの二人なら、誰も憎むことなんてしなくていいのに」
そうしたら、大人にならずにコンスタンティアのそばにいる。時間は進まない。ただあたしの体が成長から老いになるだけで。
「少なくとも、この空間はそうよ。他のことなんて、ここでは忘れてしまいましょ」
ゆらゆらと、たちあがる湯気。水音だけが響いて、はっ、と声を出した。ああ、あたしは一体何をしていたのか。目が覚めたみたいだ。両手を見る。白い手。汚れてはない。あたしの手は、汚れていないし、これからも汚れない。
あたしがコンスタンティアを許す。コンスタンティアがあたしを許す。不安になってコンスタンティアに手を伸ばすと、コンスタンティアは確かにそこに存在していた。鏡には見えないけれど、あたしの目に見えて、触れられるならそれでいい。
大人にされた酷いこと、酷いこと、同じようなことをコンスタンティアにされたらどう思うだろう、と考えた。あたしは許すどころか、嬉しい気持ちになると思う。どれだけ痛めつけられたって、あたしはコンスタンティアの想いを知っているから。きっとコンスタンティアはそんなことはしないけど、そうやって愛を表現するのなら、あたしは受け止めて、許したい。そこに悲鳴や罵声はなくて、ただ女二人の息遣いがあるだけなら。もしもの、話だけれど。コンスタンティアがそうしなくてはいてもいてられなくなって、あたしに爪を食い込ませ、腸を引きずり出すのなら、それはもう、甘い痛みなのだと思う。
死の淵で感じるのはいろんな快感だった。息ができなくなって、はくはくと死にかけの金魚みたいに、ありもしない水面に手を伸ばす。脳から酸素が消えていって、命にすがる気持ちと、なぜか体が気持ち良くなる。死に触れかけている興奮、と言えばいいだろうか。触れてはいけないものに触れかけて、死が見える自分だけの喜び。
「他の誰かなんて、好きになれるのかなあ……」
「アイちゃん。大丈夫よ。きっとアイちゃんは、他人の罪も背負おうとするのでしょうね。そんなことしなくていいのよ。それは愛ではないわ。罪は自分で受けるものよ。でも、私には、背負わせてもらってもいいかしら」
「え、コンスタンティア、それは……」
「違うわよ。ふふ。私は強いから、アイちゃんが好きだから、きっとアイちゃんの罪だって背負えるし、その罪はふつうの子どもが背負うべきのものではないから。私はアイちゃんを、ふつうの子どもにしてあげたいだけなの」
「ふつうの子どもって、何なんだ……?」
「愛をめいっぱい受けて育つのよ。それだけ。私がこれからそうしたいの。アイちゃんは私に反抗だってしていい。私はそれでいなくなることはないから」
知らないことの幸せと、罪。知らなければよかった、知っていれば避けられる。あたしはこれから、長い時間をかけて、失った子ども時代をやり直していくのだ。やわらかな土にもう一度種をまく。今度はきっと、咲いてみたい。踏み潰されずに。悪意のある手足や声から、守ってくれるひとがいる。
暑苦しくて眠れない夜、そうでない寒い夜でも、常に人恋しい。受けられるはずだったあたりまえの愛情を求めて、一人ではとても耐えられないから。一人用のベッドに無理やり押し込むみたいに、コンスタンティアとあたしは羽布団にもぐりこむ。夏は冷たいし、冬は暖かい。表面的なものも、精神が交わることも。オレンジ色の照明と、ベッドの近くに置いたランプの明かりでお互いに顔を見合って、ドライヤーで乾かしきれなかった、少し濡れた髪に触れられる。
寂しいのはあたしだけじゃない。コンスタンティアだって、あたしと違う、全く想像できない環境で暮らし、そして傷つき、疲弊した。あたしの寂しさは所詮子供のものだけれど、コンスタンティアの寂しさはきっと、大人のものなのだろうと思う。コンスタンティアはそんな素振りをしない、ように、つとめているのだろうけれど、あたしはただの子供ではないから。寂しさは一人では埋められないから。
コンスタンティアは、あたしに強くは触れられない。呪いをかけられたという赤い爪は、人を傷つけてその赤をもっと赤く黒くする。あたしは死体をいくつも見た。死体や、死体のようになったもの。コンスタンティアの手によって引き起こされたものもあるし、そうでもないものもたくさんある。人だったり、動物だったり、虫だったりする。あたしの周りで、命は消えていく。あたしがその死に生かされている。
触れようと思えば、コンスタンティアは、あたしに触れることはできるのだ。この身体を串刺しにするように、腹に詰まったものを引きずり出すように、コンスタンティアはそうすることはできる。あたしは弱い。異界の怪物よりも、ずっと。骨だって細くて、きっと小枝みたいに折ってしまえるのだろう。柔らかい皮膚に爪をめりこませることも。コンスタンティアは、あたしのことをいろんな目で見ていることは知っている。時々は母のように、姉のように、恋人のように、そしてあたしの生まれたままの姿を見て、唾を飲むことも。
それは、なんと、苦しいことなんだろう。今の時間だって、コンスタンティアはあたしをうっとりした、愛しい人を見る目で見る。激しく愛してやれるのは、人と人とだけ。映画で男女の激しく、獣のような交わりを見る。口で噛み付いて、相手の身体がどうなろうと気にしない、いや、弱い人間の力じゃあ、交わるだけではなかなか傷つけ合えはしない。おとなの、男女の交わりなら。
あたしはコンスタンティアに対して、そんな気持ちを持ったことはない。ただ大切で、かけがえのない、居なくては不安になる。悲しいときに支えになってくれる。コンスタンティアが求めるものがはっきりしているなら、あたしの責任として、答えてやらねばならないだろうか。
コンスタンティアの左胸に、ちょうど、この間、あたしがコンスタンティアにさせたように触れた。人の手は小さく、コンスタンティアを十分に包み込むことはできない。手のひらを押し付けると、確かに、何かの臓器がどくどく打っているのがわかった。そして、触れていくにつれて早まっていく。
「あ、アイちゃん、どうしたの、急に。らしくないわ……」
獣のような毛皮で、胸は覆われている。ただ触ると何かを感じるらしく、たまにピクリと大きな身体を震わせた。その間にぐいと顔を押し付けて、首に手を回す。こんなことをしても、コンスタンティアは、死の恐怖など感じないのだろう。柔らかい身体も、その奥にある硬い骨も、あたしの手じゃ欠片だって死を匂わせることはできない。
「アイちゃん、やめて。私なんかにこんなことしてはいけないわ。私はアイちゃんに幸せになってほしいのよ。よくないわ、こんな、汚らしいこと……」
「汚らしい?」
「そうよ。私にそういう触れ方をすべきじゃないわ」
「じゃあ誰にすればいい?」
「私以外の誰か、いつか好きになる人のためにとっておくものよ」
そう言われて、仕方なく、コンスタンティアから手を引いた。ほっとするような、寂しいような、不安な表情を照明がてらす。
「コンスタンティア、おまえは、あたしのことどうしたい?」.
「……言わせるの?」.
「今更隠す事でもあるのか?」
あたしの手を握る。コンスタンティアは大きく息を吸う。
「大好きよ。すごく、好きなの。どうしてなのかわからないわ。最初は可哀想だって思った。あなたはか弱いし、人間で、女の子なの。それにとっても可愛らしいわ。これから、きっと素敵なひとが現れるわよ。でもあたしが触れることで、あなたの真っ白な体に傷をつけてしまうのが怖いの。ほんとは、ほんとはもっと酷く触れたいのよ。触れられたとしても、許してもらえるのなら、だけれど」
「だから、あたしが触れようとした。コンスタンティア、おまえの気持ちは知っていたから、少しでも答えてやりたかった」
「ああ、ああ、嬉しいわ。それにさっきだって、止めなきゃって必死だったの。あたしはこんな、可愛らしい子になんてことをさせたんだろうって罪悪感も」
緑の冷たい頬に、そっと唇を当てた。当てるだけだ。コンスタンティアがあの人に持った感情は、きっとこんな感情なのだろう。横顔を見ていたら、愛おしくてたまらなくなる。
「あたしはもう小さな子供じゃないぜ、生理だってきてる」
「子供が産めるなら大人なんて、言わないのよ」
「でも小さくはない。殺してもいいなんて、映画みたいな薄っぺらいこと言わない。どうしても、殺してしまうだろ」
記憶の中を巡ると現れるのはいつも死体だった。コンスタンティアが悪いのではない。人間が、あまりに弱すぎるから。人間はうんざりだって思い知った。自分のことか、他人を貶めることばかりのたんぱく質と悪意を練り固めたもの。今日の夜だってそれが増えていくことにおぞましさを覚える。
「あたしが悪魔になれれば、おまえに答えらるか?」
「だめよ!」
さっきとは違う、強い言葉で。
「そうしたら私、本当にあなたを殺してしまう。だから今のままでいて、今の距離でいましょう。アイちゃん……。私が勝手に好きでいるだけで、アイちゃんはそれに、縛られることはないし、アイちゃんに愛する人ができたとき、私はたくさんの想いを捨てて友人になるわ」
優しいてつきで、暖かい羽布団を開けて中に戻るようにうながす。あたしはおずおずと、それに従った。
「コンスタンティア。あたしが大人になったら、これはおまえが判断してくれていい。あたしが大人になったら、おまえについていきたい。今、おまえがあたしについてきているように。あたしが大人になる前までに、好きになれるような人間が見つかったら、健全な友人になろう」
「ええ、わかったわ。それでいいわ。あなたが大人になって、人を信じられないままなら、きっとこの世界に居着くべきではないと思うから。その時は一緒に行きましょう。築き上げた過去を全て投げ捨てて。それがアイちゃんの幸せになるなら」
目をつむって、コンスタンティアの世界を想像してみる。地が割れた不毛な場所。吹く風は鋭く突き刺さって、そこらじゅうで悪魔たちはお互いを傷つけ合う、それは、物理的な形で。負けた悪魔は硬い地面に血を染み込ませ、勝った悪魔が生きるために体を捧げる。実際はどうだろうか。でも、なんにしろ、コンスタンティアのような悪魔が生まれることができるのだから、悪いところではないはずだ。
「アイちゃん、アイちゃんはそうして、私の気持ちにこたえようとしてくれるのに、アイちゃんは言葉で好きだとか、愛してるとか、言わないのね」
「言われないと不安か?」
「そうじゃないわ。アイちゃんの気持ちはわかっているつもりよ。わからないんでしょう。そういうことが。だから、まだ、小さくて可愛らしい子供なの。普通なら、お母様やお父様から教えてもらえることなのよ」
羽布団をつかんだ。震える。あたしの目の前に振り上げられる大きな手や、腕を掴まれて背中でたばこを消されたこと。誰だかわかりたくない、両親の友達だったかも。あれから愛を教わったとして、正しい愛にはならない。あたしだって愛せない人達から教わることなんてありはしない。あたしは軽蔑する。両親を、先生を、クラスメイトを。一瞬アザミの顔が浮かんで、あたしは起き上がりベッドの横に置いていたキャビネットから封筒を抜き出した。アザミは違った。アザミは狂って、死んでしまったけれど、アザミは人間だった。
ていねいに、勢いに負けないように封筒を開けると、一枚だけ便箋が入っている。ごくり、と唾を飲んで、深呼吸して、たたまれて入っていたそれを封筒から抜き出し、開いてみる。
橘さん。わたしは、あなたと友達になりたかった。でも、わたしたち、出会うのが遅かったね。わたしは全てを決めていたの。あの日に、魔女になるって、それから火あぶりにはならないから、自分に罰をしめすことにしたの。この世は嫌い。逃げるんじゃないのよ。新しい、高みを目指すの。だから悲しいことではないし、本当の自分をさらけ出すことだってできてうれしかった。わたし、ただの優等生じゃないんだから。
あなたは、きっと、幸せになれると思う。わたしがここからそれを願ってる。どんなかたちでも、あなたにとって幸せになるかたちを。
あなたの友人、アザミより。
これは少し、わたしの思い違いだったら、ごめんなさいね。でも、これからそうなれると思ったから。
友人が、ひとり増える。いくつかのことを信じられて、話せて、遊ぶ友人。あたしは友人であるアザミの想いを胸に、大人になるまでは、この地を踏みしめて生きていこう。
寂しいのはあたしだけじゃない。コンスタンティアだって、あたしと違う、全く想像できない環境で暮らし、そして傷つき、疲弊した。あたしの寂しさは所詮子供のものだけれど、コンスタンティアの寂しさはきっと、大人のものなのだろうと思う。コンスタンティアはそんな素振りをしない、ように、つとめているのだろうけれど、あたしはただの子供ではないから。寂しさは一人では埋められないから。
コンスタンティアは、あたしに強くは触れられない。呪いをかけられたという赤い爪は、人を傷つけてその赤をもっと赤く黒くする。あたしは死体をいくつも見た。死体や、死体のようになったもの。コンスタンティアの手によって引き起こされたものもあるし、そうでもないものもたくさんある。人だったり、動物だったり、虫だったりする。あたしの周りで、命は消えていく。あたしがその死に生かされている。
触れようと思えば、コンスタンティアは、あたしに触れることはできるのだ。この身体を串刺しにするように、腹に詰まったものを引きずり出すように、コンスタンティアはそうすることはできる。あたしは弱い。異界の怪物よりも、ずっと。骨だって細くて、きっと小枝みたいに折ってしまえるのだろう。柔らかい皮膚に爪をめりこませることも。コンスタンティアは、あたしのことをいろんな目で見ていることは知っている。時々は母のように、姉のように、恋人のように、そしてあたしの生まれたままの姿を見て、唾を飲むことも。
それは、なんと、苦しいことなんだろう。今の時間だって、コンスタンティアはあたしをうっとりした、愛しい人を見る目で見る。激しく愛してやれるのは、人と人とだけ。映画で男女の激しく、獣のような交わりを見る。口で噛み付いて、相手の身体がどうなろうと気にしない、いや、弱い人間の力じゃあ、交わるだけではなかなか傷つけ合えはしない。おとなの、男女の交わりなら。
あたしはコンスタンティアに対して、そんな気持ちを持ったことはない。ただ大切で、かけがえのない、居なくては不安になる。悲しいときに支えになってくれる。コンスタンティアが求めるものがはっきりしているなら、あたしの責任として、答えてやらねばならないだろうか。
コンスタンティアの左胸に、ちょうど、この間、あたしがコンスタンティアにさせたように触れた。人の手は小さく、コンスタンティアを十分に包み込むことはできない。手のひらを押し付けると、確かに、何かの臓器がどくどく打っているのがわかった。そして、触れていくにつれて早まっていく。
「あ、アイちゃん、どうしたの、急に。らしくないわ……」
獣のような毛皮で、胸は覆われている。ただ触ると何かを感じるらしく、たまにピクリと大きな身体を震わせた。その間にぐいと顔を押し付けて、首に手を回す。こんなことをしても、コンスタンティアは、死の恐怖など感じないのだろう。柔らかい身体も、その奥にある硬い骨も、あたしの手じゃ欠片だって死を匂わせることはできない。
「アイちゃん、やめて。私なんかにこんなことしてはいけないわ。私はアイちゃんに幸せになってほしいのよ。よくないわ、こんな、汚らしいこと……」
「汚らしい?」
「そうよ。私にそういう触れ方をすべきじゃないわ」
「じゃあ誰にすればいい?」
「私以外の誰か、いつか好きになる人のためにとっておくものよ」
そう言われて、仕方なく、コンスタンティアから手を引いた。ほっとするような、寂しいような、不安な表情を照明がてらす。
「コンスタンティア、おまえは、あたしのことどうしたい?」.
「……言わせるの?」.
「今更隠す事でもあるのか?」
あたしの手を握る。コンスタンティアは大きく息を吸う。
「大好きよ。すごく、好きなの。どうしてなのかわからないわ。最初は可哀想だって思った。あなたはか弱いし、人間で、女の子なの。それにとっても可愛らしいわ。これから、きっと素敵なひとが現れるわよ。でもあたしが触れることで、あなたの真っ白な体に傷をつけてしまうのが怖いの。ほんとは、ほんとはもっと酷く触れたいのよ。触れられたとしても、許してもらえるのなら、だけれど」
「だから、あたしが触れようとした。コンスタンティア、おまえの気持ちは知っていたから、少しでも答えてやりたかった」
「ああ、ああ、嬉しいわ。それにさっきだって、止めなきゃって必死だったの。あたしはこんな、可愛らしい子になんてことをさせたんだろうって罪悪感も」
緑の冷たい頬に、そっと唇を当てた。当てるだけだ。コンスタンティアがあの人に持った感情は、きっとこんな感情なのだろう。横顔を見ていたら、愛おしくてたまらなくなる。
「あたしはもう小さな子供じゃないぜ、生理だってきてる」
「子供が産めるなら大人なんて、言わないのよ」
「でも小さくはない。殺してもいいなんて、映画みたいな薄っぺらいこと言わない。どうしても、殺してしまうだろ」
記憶の中を巡ると現れるのはいつも死体だった。コンスタンティアが悪いのではない。人間が、あまりに弱すぎるから。人間はうんざりだって思い知った。自分のことか、他人を貶めることばかりのたんぱく質と悪意を練り固めたもの。今日の夜だってそれが増えていくことにおぞましさを覚える。
「あたしが悪魔になれれば、おまえに答えらるか?」
「だめよ!」
さっきとは違う、強い言葉で。
「そうしたら私、本当にあなたを殺してしまう。だから今のままでいて、今の距離でいましょう。アイちゃん……。私が勝手に好きでいるだけで、アイちゃんはそれに、縛られることはないし、アイちゃんに愛する人ができたとき、私はたくさんの想いを捨てて友人になるわ」
優しいてつきで、暖かい羽布団を開けて中に戻るようにうながす。あたしはおずおずと、それに従った。
「コンスタンティア。あたしが大人になったら、これはおまえが判断してくれていい。あたしが大人になったら、おまえについていきたい。今、おまえがあたしについてきているように。あたしが大人になる前までに、好きになれるような人間が見つかったら、健全な友人になろう」
「ええ、わかったわ。それでいいわ。あなたが大人になって、人を信じられないままなら、きっとこの世界に居着くべきではないと思うから。その時は一緒に行きましょう。築き上げた過去を全て投げ捨てて。それがアイちゃんの幸せになるなら」
目をつむって、コンスタンティアの世界を想像してみる。地が割れた不毛な場所。吹く風は鋭く突き刺さって、そこらじゅうで悪魔たちはお互いを傷つけ合う、それは、物理的な形で。負けた悪魔は硬い地面に血を染み込ませ、勝った悪魔が生きるために体を捧げる。実際はどうだろうか。でも、なんにしろ、コンスタンティアのような悪魔が生まれることができるのだから、悪いところではないはずだ。
「アイちゃん、アイちゃんはそうして、私の気持ちにこたえようとしてくれるのに、アイちゃんは言葉で好きだとか、愛してるとか、言わないのね」
「言われないと不安か?」
「そうじゃないわ。アイちゃんの気持ちはわかっているつもりよ。わからないんでしょう。そういうことが。だから、まだ、小さくて可愛らしい子供なの。普通なら、お母様やお父様から教えてもらえることなのよ」
羽布団をつかんだ。震える。あたしの目の前に振り上げられる大きな手や、腕を掴まれて背中でたばこを消されたこと。誰だかわかりたくない、両親の友達だったかも。あれから愛を教わったとして、正しい愛にはならない。あたしだって愛せない人達から教わることなんてありはしない。あたしは軽蔑する。両親を、先生を、クラスメイトを。一瞬アザミの顔が浮かんで、あたしは起き上がりベッドの横に置いていたキャビネットから封筒を抜き出した。アザミは違った。アザミは狂って、死んでしまったけれど、アザミは人間だった。
ていねいに、勢いに負けないように封筒を開けると、一枚だけ便箋が入っている。ごくり、と唾を飲んで、深呼吸して、たたまれて入っていたそれを封筒から抜き出し、開いてみる。
橘さん。わたしは、あなたと友達になりたかった。でも、わたしたち、出会うのが遅かったね。わたしは全てを決めていたの。あの日に、魔女になるって、それから火あぶりにはならないから、自分に罰をしめすことにしたの。この世は嫌い。逃げるんじゃないのよ。新しい、高みを目指すの。だから悲しいことではないし、本当の自分をさらけ出すことだってできてうれしかった。わたし、ただの優等生じゃないんだから。
あなたは、きっと、幸せになれると思う。わたしがここからそれを願ってる。どんなかたちでも、あなたにとって幸せになるかたちを。
あなたの友人、アザミより。
これは少し、わたしの思い違いだったら、ごめんなさいね。でも、これからそうなれると思ったから。
友人が、ひとり増える。いくつかのことを信じられて、話せて、遊ぶ友人。あたしは友人であるアザミの想いを胸に、大人になるまでは、この地を踏みしめて生きていこう。
夏休みも終わって、数日に一度は涼しさを感じられるようになったころ、隣のクラスでとても、いろんな意味で有名人だった、アザミという子が先生に呼び出しを受けて、それから学校に来なくなった。
アザミは大人しく口数の少ない子で、他人と争ったり問題を起こしにいくような子ではない。背は高く、中学生から高校生になったばかりの歳にしては大人びていてスタイルもよく、男子の話題にもよく上がっていたようだった。黒いふちの眼鏡の奥にはきれいな二重まぶたの目、鼻は高く肌は白い。恵まれた容姿からはほのかに性の香りがした。清楚な黒いロングヘアはていねいに手入れがされているらしく、いつもサラサラと風に揺らしているのは、妖精のようだと思ったことがある。あまりにも綺麗なものだから、援助交際をしているというあるわけのない噂を、妬んだ女の子たちが垂れ流していた。その顔は、アザミとは比べものにならないほどに醜かった。
成績もよく先生からの評価も上々と、優等生であるにも関わらず控えめで自分の頭の良さを鼻にかけることもない。
あたしは息苦しい教室から逃げ込むために図書室によく向かって、お互いを認識していた。アザミも、図書室にいた。同じなのだろう、と思ったことがある。あたしとは違う理由だけれど、周りに爪弾きにされて、ひとりぼっちだ。
二度か、それくらい言葉を交わしたことがある。あたしはあまり本に興味はなく、興味があるのはコンスタンティアだ。コンスタンティアを連れて、コンスタンティアの様子を眺めているだけなものだから、アザミは不思議に思ったに違いない。
「ええっと、橘、アイさんよね?」
可愛らしい、アイドルというよりは、影をもった女優のような。あたしはびっくりして、あまりに眩しいものだから目を逸らした。
「あ、うん、そうだ。どうかしたか?」
「ううん。特に何かあるわけでもないんだけれど、よく見るから、本が好きなのかと思ったら、いつも表紙を眺めていくだけだし」
「いや、単に教室より、落ち着くから……」
そうね、とアザミは足元を見る。白い上靴。
「わたしもそうなの。わたし、アザミっていうの。藤寺アザミ。橘さんのことはよく知っているわ」
「あたしも、知ってる」
そう言うと、お互いにくすくす笑った。アザミが受けている仕打ちは、あたしに対してのものより酷いことも知っている。
あたしはただ、ここにいないことにされるだけだ。アザミは、あまりにも存在感がありすぎる。
夏休みの前ごろだったか、あいつの鞄を池に投げ込んでやったわ! と、大きな醜い声が響いたのを覚えている。その後学校から抜け出して深泥池でコンスタンティアと居ると、よろよろとした足取りで、緑色の汚い池に浮かんだ鞄、その中身を拾うために手を入れる綺麗な女子生徒を見た。
そんなことをされていることを感じさせない。アザミは、いつまでもどこまでも美人なのだと思う。この国の、この場所に産まれて育ってしまったことが、他人であるあたしが虚しくなるくらいに、むごい。
「また、その、良かったら少し、ここでお話がしたいな。橘さんが、嫌じゃなければだけれど……」
「ああ、それは、構わないよ。ゆっくりだけれど。それで、何か力になれるなら」
アザミはいくつかの文庫本を抱えて、頭を下げた。
「橘さん、橘さん、ありがとう!」
そんなこと、話すだけで感謝する必要ないのに。そうするとチャイムが鳴ったので、アザミは手を振ってそそくさと図書室を出た。
あたしにはコンスタンティアがいるけれど、アザミには、コンスタンティアはいないのだものな。あたしがコンスタンティアにどれだけ救われているのかは、よくわかっている。あたしがアザミのコンスタンティアのようになれるかはわからないけど、人間としての、最低限の良心は持ち合わせているつもりだ。それすらない人間、クラスメイトたちは、あたしは人間と認めていない。悪魔のコンスタンティアでさえ人を想い、愛することができるのだから、あいつらは悪魔と形容するのも腹立たしいほど。ただの、悪意の塊の、たんぱく質だ。
コンスタンティアはその様子を邪魔することなく、本棚の奥からそっと出てきた。
「アイちゃん、これを借りていくわ」
そう渡されたのは小難しそうな哲学書と、植物の、……花言葉の本だった。それを受け取り、貸し出しカードを書く。誰もいない図書室。
「今日は、授業はどうするの?」
「ん。出るよ。そろそろ出なきゃまずいだろ」
「そう。がんばってね。借りてくれてありがと」
コンスタンティアは図書室から出ようとすると、すん、と、鼻をきかせる。ちょうどアザミが居た所だった。
「死の匂いがするわ。死が渦巻いているの。たくさんの死がやってきているわ」
その言葉にどきりとした。アザミに、何かあるのでは。本を鞄に押し込んで、階段を駆け上がった。高い声の悲鳴が聞こえる。遅かった。アザミの声ではなかった。アザミはどうしているのだろう、関わったのは一瞬だったけれども、似た波長を感じたから。どうにかアザミの姿を確認したくて、思い切り足を踏み出した。
教室はがらんとして、誰も居なかった。移動教室か、扉の窓から時間割を確認して、理科室に走ると、近づくたびに死の匂いが、あたしにも感じられる。死の匂い、血の臭い、理科室から飛び出してくる生徒、その真ん中で、血にまみれて、高笑いするアザミがいた。まるでさっきの様子とは違う、何かが取り憑いたような。コンスタンティアはあたしの前に立って、守るようにする。
コンスタンティアの後ろから確認できたのは、たくさんの、動物の死骸だった。何なのかははっきりわからない。犬か、それくらいのもの。腸を引き裂かれて、首は切断されたものが、いくつも理科室のテーブルに乗せられている。
「アザミ!」
叫んだ。あたしは叫んだ。アザミははっとして、持っていた刃物をカランと落とした。血走っていた目がみるみるうちに戻っていく。周りの様子を見て、力なく、血だまりの中に崩れる。アザミに駆け寄ろうとすると、アザミの担任が止めた。あたしは強く睨む。おまえが、大人が守ってやらなかったから、美しいアザミは狂うことでしか助けを求められなかったことを瞬時に理解した。
「殺してやる……」
思わず、そう、声に出た。
「アイちゃん! いけないわ!」
コンスタンティアも叫んだ。コンスタンティアの声はあたしの耳にだけ通る。あたしはそれで現実が見える。力を抜いて、アザミに、笑いかけた。そうするとアザミは、弱々しく笑い返してくる。綺麗なアザミ、赤く、臓物にまみれて、歪んでいった、それでも綺麗なアザミ。この世が、大人が、たんぱく質の塊たちへのこの上ない殺意に、コンスタンティアはあたしを抱いて止めようとする。
その他にも、アザミは、いろんなことをしていた。ネズミか何かの臓物を、いじめていたグループの女の子の靴に塗りつけたり、ぺしゃんこに潰れた小鳥や虫の死骸を机に入れたりしていた。アザミは動物を殺さない。アザミは優等生だ。日々受けるいじめのストレスに対して、発散したくて、いけないことをしたい、例えば、動物の死骸を探して集めるような。アザミは絶対に、動物を殺したりしない。そうでなければ、あんな美しい少女に育たないから。でも、歪んだまわりのたんぱく質たちのせいで、美しい少女が周りにあわせようと歪み、歪みすぎることが、ただただ、悲しくて仕方がないんだ。
それからアザミは学校に来なくなった。クラスメイトたちは、アザミのことを魔女と呼んだし、魔女がどこにいた、会ったら殺されると恐れるようになった。あたしはアザミを探したけれど、アザミには会えない。他のたんぱく質たちはアザミの姿を見ることができるのに、どうして、あたしだけが。アザミのことを思うとやるせなくなって、今どうしているだろうか、大丈夫だろうかと、どうにかして、他のたんぱく質どもからアザミを救ってやりたかった。あたしはアザミの、コンスタンティアになりたかった。あたしが救われたから、今度は誰かを救いたかった。
あたしは夕方の街をとぼとぼと歩いていた。夕飯のこと、明日の小テスト、憂鬱なクラスメイトと頼れない大人たち、そして、アザミ。
コンスタンティアがつぶやく。
「死の匂い……」
べちゃりとした、水の叩きつけられるような音がした。振り向くと、黒髪の、制服を着た少女が地面にへばりつくようにしていた。腕や足はあらぬ方向に曲がり、血がじんわりとアスファルトに滲んでいく。さらさらと、揺れる妖精の髪。駆け寄って、そして空を見上げる。何階あるのだろう、高い高いマンションが夕日でオレンジ色に染まる。あたしは携帯を握る。泣いたり叫んだりはしない。悲しむのは後でいい、アザミのために、そう、まちがいなくアザミのためにすることは決まっている。流れる血の色でさえも鮮やかで、美しいものなのだ。アザミの曲がった手を握る。人の温度がした。コンスタンティアは、その上から手を握った。ひんやりとして、冷たかった。
それから、まだ頼れないといけない大人たちと話をしたあとに、うちへ帰った。ポストを開けると、水色とピンクで水玉の、可愛らしい封筒が入っている。差出人は、藤寺アザミ。宛先は橘アイ。あたしは一瞬思考を止めた。アザミは、死んだ。大人が言っていた。助からない。即死だったから。そのアザミからの、あの世からの手紙。おそるおそるポストから引きずり出した。
アザミの筆跡。かすかに、あの美少女のなごりを感じる。きっと一ヶ月もすれば皆、アザミのことなど忘れるのだろう。アザミにしたことを悪びれることもせず、アザミの家族に謝罪することもなく……。
アザミがなぜ死んだのか、誰にもわかるはずなかった。それが自分に行われていることであるのに、他人に行われているような、そんな目でいつもアザミはものを見ていたと思う。いじめられている時、誰かに助けを乞うように泣いたり、人に希望の目を向けたりしていなかった。いや、あたしにだけは、ただのたんぱく質でなかったあたしには、アザミは笑いかけた。
手紙を受け取って、人としての感情を殺して淡々と生きてきたけれど、自分がもしかしたら触れられたいのち、一緒に長い時間を過ごせるかもしれなかった波長をしていた、そして周りから迫害され、見下していた。同じだった。同じもの同士、もっと早くに寄り添うことができたら。アザミの手紙を握りながら、死んだアザミを思い出した。お葬式には行けるだろうか。現実と、希望。
あたしにはまだ、開けられない。アザミは現在にいるから。アザミが過去になって、あたしが耐えられるようになったら、この中のアザミの苦しみを背負って、この世で生きていくことができると思うから。
黒いカラスが夕方の空を埋める。コンスタンティアはつぶやく。
「アザミの花言葉は、報復。触れないで。ですって」
手には先日借りた花の本がある。あたしは、アザミに触れてもよかっただろうか。触れてみたかった、またお話したいって、言葉を交わしただけで、意識の奥でぴったりと糸が結びついたみたいだったら。
あたしはコンスタンティアになにも言わず、玄関のカギを取り出した。
アザミは大人しく口数の少ない子で、他人と争ったり問題を起こしにいくような子ではない。背は高く、中学生から高校生になったばかりの歳にしては大人びていてスタイルもよく、男子の話題にもよく上がっていたようだった。黒いふちの眼鏡の奥にはきれいな二重まぶたの目、鼻は高く肌は白い。恵まれた容姿からはほのかに性の香りがした。清楚な黒いロングヘアはていねいに手入れがされているらしく、いつもサラサラと風に揺らしているのは、妖精のようだと思ったことがある。あまりにも綺麗なものだから、援助交際をしているというあるわけのない噂を、妬んだ女の子たちが垂れ流していた。その顔は、アザミとは比べものにならないほどに醜かった。
成績もよく先生からの評価も上々と、優等生であるにも関わらず控えめで自分の頭の良さを鼻にかけることもない。
あたしは息苦しい教室から逃げ込むために図書室によく向かって、お互いを認識していた。アザミも、図書室にいた。同じなのだろう、と思ったことがある。あたしとは違う理由だけれど、周りに爪弾きにされて、ひとりぼっちだ。
二度か、それくらい言葉を交わしたことがある。あたしはあまり本に興味はなく、興味があるのはコンスタンティアだ。コンスタンティアを連れて、コンスタンティアの様子を眺めているだけなものだから、アザミは不思議に思ったに違いない。
「ええっと、橘、アイさんよね?」
可愛らしい、アイドルというよりは、影をもった女優のような。あたしはびっくりして、あまりに眩しいものだから目を逸らした。
「あ、うん、そうだ。どうかしたか?」
「ううん。特に何かあるわけでもないんだけれど、よく見るから、本が好きなのかと思ったら、いつも表紙を眺めていくだけだし」
「いや、単に教室より、落ち着くから……」
そうね、とアザミは足元を見る。白い上靴。
「わたしもそうなの。わたし、アザミっていうの。藤寺アザミ。橘さんのことはよく知っているわ」
「あたしも、知ってる」
そう言うと、お互いにくすくす笑った。アザミが受けている仕打ちは、あたしに対してのものより酷いことも知っている。
あたしはただ、ここにいないことにされるだけだ。アザミは、あまりにも存在感がありすぎる。
夏休みの前ごろだったか、あいつの鞄を池に投げ込んでやったわ! と、大きな醜い声が響いたのを覚えている。その後学校から抜け出して深泥池でコンスタンティアと居ると、よろよろとした足取りで、緑色の汚い池に浮かんだ鞄、その中身を拾うために手を入れる綺麗な女子生徒を見た。
そんなことをされていることを感じさせない。アザミは、いつまでもどこまでも美人なのだと思う。この国の、この場所に産まれて育ってしまったことが、他人であるあたしが虚しくなるくらいに、むごい。
「また、その、良かったら少し、ここでお話がしたいな。橘さんが、嫌じゃなければだけれど……」
「ああ、それは、構わないよ。ゆっくりだけれど。それで、何か力になれるなら」
アザミはいくつかの文庫本を抱えて、頭を下げた。
「橘さん、橘さん、ありがとう!」
そんなこと、話すだけで感謝する必要ないのに。そうするとチャイムが鳴ったので、アザミは手を振ってそそくさと図書室を出た。
あたしにはコンスタンティアがいるけれど、アザミには、コンスタンティアはいないのだものな。あたしがコンスタンティアにどれだけ救われているのかは、よくわかっている。あたしがアザミのコンスタンティアのようになれるかはわからないけど、人間としての、最低限の良心は持ち合わせているつもりだ。それすらない人間、クラスメイトたちは、あたしは人間と認めていない。悪魔のコンスタンティアでさえ人を想い、愛することができるのだから、あいつらは悪魔と形容するのも腹立たしいほど。ただの、悪意の塊の、たんぱく質だ。
コンスタンティアはその様子を邪魔することなく、本棚の奥からそっと出てきた。
「アイちゃん、これを借りていくわ」
そう渡されたのは小難しそうな哲学書と、植物の、……花言葉の本だった。それを受け取り、貸し出しカードを書く。誰もいない図書室。
「今日は、授業はどうするの?」
「ん。出るよ。そろそろ出なきゃまずいだろ」
「そう。がんばってね。借りてくれてありがと」
コンスタンティアは図書室から出ようとすると、すん、と、鼻をきかせる。ちょうどアザミが居た所だった。
「死の匂いがするわ。死が渦巻いているの。たくさんの死がやってきているわ」
その言葉にどきりとした。アザミに、何かあるのでは。本を鞄に押し込んで、階段を駆け上がった。高い声の悲鳴が聞こえる。遅かった。アザミの声ではなかった。アザミはどうしているのだろう、関わったのは一瞬だったけれども、似た波長を感じたから。どうにかアザミの姿を確認したくて、思い切り足を踏み出した。
教室はがらんとして、誰も居なかった。移動教室か、扉の窓から時間割を確認して、理科室に走ると、近づくたびに死の匂いが、あたしにも感じられる。死の匂い、血の臭い、理科室から飛び出してくる生徒、その真ん中で、血にまみれて、高笑いするアザミがいた。まるでさっきの様子とは違う、何かが取り憑いたような。コンスタンティアはあたしの前に立って、守るようにする。
コンスタンティアの後ろから確認できたのは、たくさんの、動物の死骸だった。何なのかははっきりわからない。犬か、それくらいのもの。腸を引き裂かれて、首は切断されたものが、いくつも理科室のテーブルに乗せられている。
「アザミ!」
叫んだ。あたしは叫んだ。アザミははっとして、持っていた刃物をカランと落とした。血走っていた目がみるみるうちに戻っていく。周りの様子を見て、力なく、血だまりの中に崩れる。アザミに駆け寄ろうとすると、アザミの担任が止めた。あたしは強く睨む。おまえが、大人が守ってやらなかったから、美しいアザミは狂うことでしか助けを求められなかったことを瞬時に理解した。
「殺してやる……」
思わず、そう、声に出た。
「アイちゃん! いけないわ!」
コンスタンティアも叫んだ。コンスタンティアの声はあたしの耳にだけ通る。あたしはそれで現実が見える。力を抜いて、アザミに、笑いかけた。そうするとアザミは、弱々しく笑い返してくる。綺麗なアザミ、赤く、臓物にまみれて、歪んでいった、それでも綺麗なアザミ。この世が、大人が、たんぱく質の塊たちへのこの上ない殺意に、コンスタンティアはあたしを抱いて止めようとする。
その他にも、アザミは、いろんなことをしていた。ネズミか何かの臓物を、いじめていたグループの女の子の靴に塗りつけたり、ぺしゃんこに潰れた小鳥や虫の死骸を机に入れたりしていた。アザミは動物を殺さない。アザミは優等生だ。日々受けるいじめのストレスに対して、発散したくて、いけないことをしたい、例えば、動物の死骸を探して集めるような。アザミは絶対に、動物を殺したりしない。そうでなければ、あんな美しい少女に育たないから。でも、歪んだまわりのたんぱく質たちのせいで、美しい少女が周りにあわせようと歪み、歪みすぎることが、ただただ、悲しくて仕方がないんだ。
それからアザミは学校に来なくなった。クラスメイトたちは、アザミのことを魔女と呼んだし、魔女がどこにいた、会ったら殺されると恐れるようになった。あたしはアザミを探したけれど、アザミには会えない。他のたんぱく質たちはアザミの姿を見ることができるのに、どうして、あたしだけが。アザミのことを思うとやるせなくなって、今どうしているだろうか、大丈夫だろうかと、どうにかして、他のたんぱく質どもからアザミを救ってやりたかった。あたしはアザミの、コンスタンティアになりたかった。あたしが救われたから、今度は誰かを救いたかった。
あたしは夕方の街をとぼとぼと歩いていた。夕飯のこと、明日の小テスト、憂鬱なクラスメイトと頼れない大人たち、そして、アザミ。
コンスタンティアがつぶやく。
「死の匂い……」
べちゃりとした、水の叩きつけられるような音がした。振り向くと、黒髪の、制服を着た少女が地面にへばりつくようにしていた。腕や足はあらぬ方向に曲がり、血がじんわりとアスファルトに滲んでいく。さらさらと、揺れる妖精の髪。駆け寄って、そして空を見上げる。何階あるのだろう、高い高いマンションが夕日でオレンジ色に染まる。あたしは携帯を握る。泣いたり叫んだりはしない。悲しむのは後でいい、アザミのために、そう、まちがいなくアザミのためにすることは決まっている。流れる血の色でさえも鮮やかで、美しいものなのだ。アザミの曲がった手を握る。人の温度がした。コンスタンティアは、その上から手を握った。ひんやりとして、冷たかった。
それから、まだ頼れないといけない大人たちと話をしたあとに、うちへ帰った。ポストを開けると、水色とピンクで水玉の、可愛らしい封筒が入っている。差出人は、藤寺アザミ。宛先は橘アイ。あたしは一瞬思考を止めた。アザミは、死んだ。大人が言っていた。助からない。即死だったから。そのアザミからの、あの世からの手紙。おそるおそるポストから引きずり出した。
アザミの筆跡。かすかに、あの美少女のなごりを感じる。きっと一ヶ月もすれば皆、アザミのことなど忘れるのだろう。アザミにしたことを悪びれることもせず、アザミの家族に謝罪することもなく……。
アザミがなぜ死んだのか、誰にもわかるはずなかった。それが自分に行われていることであるのに、他人に行われているような、そんな目でいつもアザミはものを見ていたと思う。いじめられている時、誰かに助けを乞うように泣いたり、人に希望の目を向けたりしていなかった。いや、あたしにだけは、ただのたんぱく質でなかったあたしには、アザミは笑いかけた。
手紙を受け取って、人としての感情を殺して淡々と生きてきたけれど、自分がもしかしたら触れられたいのち、一緒に長い時間を過ごせるかもしれなかった波長をしていた、そして周りから迫害され、見下していた。同じだった。同じもの同士、もっと早くに寄り添うことができたら。アザミの手紙を握りながら、死んだアザミを思い出した。お葬式には行けるだろうか。現実と、希望。
あたしにはまだ、開けられない。アザミは現在にいるから。アザミが過去になって、あたしが耐えられるようになったら、この中のアザミの苦しみを背負って、この世で生きていくことができると思うから。
黒いカラスが夕方の空を埋める。コンスタンティアはつぶやく。
「アザミの花言葉は、報復。触れないで。ですって」
手には先日借りた花の本がある。あたしは、アザミに触れてもよかっただろうか。触れてみたかった、またお話したいって、言葉を交わしただけで、意識の奥でぴったりと糸が結びついたみたいだったら。
あたしはコンスタンティアになにも言わず、玄関のカギを取り出した。
うっすら明るくなったカーテンを、よろよろと羽毛布団から抜け出して開く。地面を打ち付ける激しい水音、篠突くような豪雨は、天が泣いているというよりは、怒っているようにしか思えないほどの。すん、と、雨のにおいを嗅いだ。晴れているときよりは、ずいぶんましだ。日光は、特に自分の体に悪いわけではないが、周りの人が晴れたことを喜ぶのが大嫌いで、それでなんだか具合が悪くなる。
コンスタンティアはいつから起きていたのか、はたまた眠っていないのか、床に腰を下ろして、図書館から借りてきた本にかじりついていた。本を傷つけぬようにと、小さな文庫本に対して、まるで子猫でも触るような手つきだった。コンスタンティアは、家でそうしていることが多いし、あたしがパソコンをつけると、美術品のページが見たいと言う。あの人の影響か、人が表現するもの、文であれ絵であれ彫刻であれ、音楽であれ、なんでも好む。そうして、人間を知ってきたし、人間になろうという努力に違いなかった。あたしは面倒をみてやる立場なんで、他にすることなんて重大なことでもないし、図書館に行きたいと言えば連れてってやるし、近くで美術展があると聞いたら誘ってやる。
コンスタンティアの姿は、人間には見えない。コンスタンティアが姿を現し、一緒にいることを約束した人間だけが、コンスタンティアが身を隠す術を使っていても目視することができる。
二人で観にいっているのに、映画や美術展のチケットは一枚でいい。高校生と、悪魔一枚なんて、笑えるんで、窓口で一度言ってみたいものだけれど!
日曜日はよく、家でドラマを見たり音楽鑑賞をしていたが、今日は重大な約束がひとつ、あたしにはあった。そのことを思うと、コンスタンティアの姿を見て安心していたけれど、やはり、恐ろしくて、服を脱いで下着をかえて、服に着替えようとすると手先が震える。
「アイちゃん?」
服だけでも好きなものを着ていこうと選んだ赤いブラウスを足元に落とした。姿見に、下着姿のあたしだけがうつる。立ち上がったコンスタンティアは、鏡にはうつらない。
「大丈夫?」
首を横に振った。大丈夫じゃない。ピンクでふわふわのレースのついた下着は、コンスタンティアが選んでくれたものだ。ちらりと、肩に見えてしまった、ケロイド。
ブラウスの上にうずくまる。真っ青な顔のあたしを、姿見は容赦なくつきつける。苦しい現実、醜いあたし、強がったしるし。
コンスタンティアはあたしを抱き寄せる。後ろから、そっと、あたしが誰にもしてもらえなかったことを、あたしはコンスタンティアに求めた。
「アイちゃん。大丈夫よ。私がついているわ。何があったとしても、私がこれからはついているから。ずっとずっとアイちゃんの味方よ。怖いものがあっても、私が守ってあげるわ。だって私は強いもの」
そう、人間よりも、ずっと強い。この世の人間の、誰よりも強くて、やさしい女。周りの人間には、あたしは一人で生きているように見えるだろう。
コンスタンティアの冷たい腕を握った。氷とまではいかないが、生き物だとは思えない体温は、蒸し暑い上にひどい雨で窓も開けられないので気持ちがいい。
「ずっとこうしていたいよ……」
「私もよ。ずっとアイちゃんといたいの。でも、アイちゃんは人間だし、まだ小さいから、学ぶためにやらなくてはいけない事がたくさんあるわね。それを肩代わりすることはできないの。だから、辛いことや悲しいことがあったり、嫌なことをしないといけないとき、私がそばにいるわ。大丈夫よ。アイちゃんはいい子だって、私は嫌になるくらい知っているんだから」
おそるおそる、ブラウスをつまむと、コンスタンティアは少し離れた。
「それを着たいなら、きっと、黒いパンツが似合うわ。アイちゃんは足が長くて綺麗なの。膝の形がとっても綺麗で、私はお気に入りなのよ。だから、短いものでもいいわね」
「そうする。ありがとう。おまえは、センスがいいから」
「私はなかなかおしゃれができないから、代わりに、アイちゃんに可愛かったりかっこよかったり、そうね、いろんな服を着てみてほしいって、思っているの」
言われた通りに、クロゼットから黒のショートパンツを取り出した。合わせてみると、確かに、自分でいつも選ぶ組み合わせよりは自分が生かされているという気分になる。自分に似合う服を、着るということ。自分が確立されているということ。ずきりと胸にきて、今までもやついていた自分の姿がはっきりして、奥の方にある本当の気持ちに触れたような感じがした。
幼い頃から、気持ちを押し込めている。両親と暮らしていたころは、家の中を飛び交う罵声とか、金切声におびえて、布団にうずくまっていた。たまに、これは、まだ理解ができないのだが、仲良くあたしを置いて出かけていくときがあった。穏やかな気持ちになれたのを覚えている。夜中にゲームをする父親の背中とテレビの画面を、ばれないように、数時間黙って見ていたものだから、やってみたくて、コントローラを握ってみる。
今日と同じような雨の日曜日だって、あたしの父親は、ゲームをしていた。そのときに、あたしにもやらせてとお願いしたことはない。後ろで見ているだけで、遊ぶのは、両親がいないときだけだった。
母親に対しては、何も思わなかった。父親がいないときは、眠っていた。ただ、なんとなく生きていけるだろうというくらいの食事をあたしに与え、買い物のついでに、最低限必要なものだけを買い与える。テレビを見ていて、欲しいおもちゃがあったことがあった。ケーキをつくるおもちゃ。一度だけ、母親におねだりしてみたことがある。母親は、ファッション雑誌を見て、『ケーキなんて、買えばいいでしょ』と言った。ケーキなんて、買ってくれたことないくせに。
嫌いとか、好きとか、まっすぐな感情じゃない。学校でまわりから聞く家族の話、本やドラマで得られる、『ふつうの家庭』の情報に、むかむかして、どうしてあたしが、あたしだけがこんなに苦しい家に縛り付けられていなくてはならないのかと。
刃物が飛ぶ日もあった。雨風はしのげる場所だった。でも、大人からの暴力や、暴言、肺を蹂躙するたばこの煙なんかからは逃れられない。よわい子供は、どこに助けを求めればいいのかもわからなくて、ただ、いつ命が奪われるかわからない場所で眠るしかなかった。紛争地帯の子供よりずいぶん幸せなんて、言わないでほしい。あたしの世界はここしかない上に、地獄だったのだから。
「コンスタンティア、あたしが、おまえと出会わなかったら、どうなっていたろう。死んでいたかもしれない。あたしはこのうちで、あと数年だって生きる我慢もできなかったかもしれない。あたしはおまえと出会って、はじめて、人間になれたのだと思う」
何かを主張できる自由。二本の足で立って、歩き回る自由。家という牢獄から抜け出して、子供のようにスキップしたのを覚えている。家の中は、血で赤かった。
コンスタンティアは優しい。いつまでも、どこまでも。あたしの後ろにいて、ドラマで見た母親や、姉とはまた違うけれども、あたしの心を安定させて、安心させる。
「悩んでいたの。今は違うわ、正しいことをしたって思ってる。これから、長い時間を生きていなくてはいけないアイちゃんには、あまりにも過酷すぎたもの。だから私は解放をしたわ。アイちゃんに幸せになってほしかったし、お母様たちは、アイちゃんを幸せにしようなんて思っていなかったもの。アイちゃんだって、家族のことを欠片だって愛してなかった」
「そうだった。間違いない。あたしの中で、ただ恐怖として存在していたんだ」
「ただ、私は、アイちゃんを人間でなくしていくお母様たちが憎くて仕方がなかったのよ。アイちゃんが生まれたときは嬉しかったでしょうね。私もそうだったし、たくさんのことをね、アイちゃんに言われて考えたわ。子供は、ものじゃないんだって。生まれたら、終わりじゃなくて、この先何十年も存在していくし、その責任をとらなければならない。お母様たちはアイちゃんに責任をはたさなかった」
立って、歩けて、話せるよろこび。人として当たり前の権利。たくさんの心と、体に残った傷。消えはしないが、癒すことはできる。人間は忘れることができる。楽しかったことも、そして、難しいけれど、嫌だったことも、いつかは忘れて乗り越える。それが、あたしには、少し早く、たくさんのことがおきすぎただけだ。あたしにはコンスタンティアがいる。それでいい。コンスタンティアが、あたしの手を取って引き上げてくれる。コンスタンティアが悩んだときは、あたしは、隣で話を聞いて、触れる。引き上げるまでの力はないけれど、コンスタンティアは強いから、自分で上ってこられる。
「お母様に会うのは、久しぶりで、緊張するわね」
無邪気に笑う。あたしも、同じように笑顔を返してみせる。
「元気でいると、いいけれど」
深泥池精神病院へは、バスで二十分ほど。その間は、イヤホンで、お気に入りの古い洋楽を二人で聴いていこう。
君に恋しそうなんだ。一度のキスで恋に落ちるんだ。一度だけでいいからさせてよ、一度だけ。キスさせて、キスしてよ。ああ、なんて、まっすぐで、馬鹿らしいんだろうって、二人で口を大きく開けて笑いたいから。
コンスタンティアはいつから起きていたのか、はたまた眠っていないのか、床に腰を下ろして、図書館から借りてきた本にかじりついていた。本を傷つけぬようにと、小さな文庫本に対して、まるで子猫でも触るような手つきだった。コンスタンティアは、家でそうしていることが多いし、あたしがパソコンをつけると、美術品のページが見たいと言う。あの人の影響か、人が表現するもの、文であれ絵であれ彫刻であれ、音楽であれ、なんでも好む。そうして、人間を知ってきたし、人間になろうという努力に違いなかった。あたしは面倒をみてやる立場なんで、他にすることなんて重大なことでもないし、図書館に行きたいと言えば連れてってやるし、近くで美術展があると聞いたら誘ってやる。
コンスタンティアの姿は、人間には見えない。コンスタンティアが姿を現し、一緒にいることを約束した人間だけが、コンスタンティアが身を隠す術を使っていても目視することができる。
二人で観にいっているのに、映画や美術展のチケットは一枚でいい。高校生と、悪魔一枚なんて、笑えるんで、窓口で一度言ってみたいものだけれど!
日曜日はよく、家でドラマを見たり音楽鑑賞をしていたが、今日は重大な約束がひとつ、あたしにはあった。そのことを思うと、コンスタンティアの姿を見て安心していたけれど、やはり、恐ろしくて、服を脱いで下着をかえて、服に着替えようとすると手先が震える。
「アイちゃん?」
服だけでも好きなものを着ていこうと選んだ赤いブラウスを足元に落とした。姿見に、下着姿のあたしだけがうつる。立ち上がったコンスタンティアは、鏡にはうつらない。
「大丈夫?」
首を横に振った。大丈夫じゃない。ピンクでふわふわのレースのついた下着は、コンスタンティアが選んでくれたものだ。ちらりと、肩に見えてしまった、ケロイド。
ブラウスの上にうずくまる。真っ青な顔のあたしを、姿見は容赦なくつきつける。苦しい現実、醜いあたし、強がったしるし。
コンスタンティアはあたしを抱き寄せる。後ろから、そっと、あたしが誰にもしてもらえなかったことを、あたしはコンスタンティアに求めた。
「アイちゃん。大丈夫よ。私がついているわ。何があったとしても、私がこれからはついているから。ずっとずっとアイちゃんの味方よ。怖いものがあっても、私が守ってあげるわ。だって私は強いもの」
そう、人間よりも、ずっと強い。この世の人間の、誰よりも強くて、やさしい女。周りの人間には、あたしは一人で生きているように見えるだろう。
コンスタンティアの冷たい腕を握った。氷とまではいかないが、生き物だとは思えない体温は、蒸し暑い上にひどい雨で窓も開けられないので気持ちがいい。
「ずっとこうしていたいよ……」
「私もよ。ずっとアイちゃんといたいの。でも、アイちゃんは人間だし、まだ小さいから、学ぶためにやらなくてはいけない事がたくさんあるわね。それを肩代わりすることはできないの。だから、辛いことや悲しいことがあったり、嫌なことをしないといけないとき、私がそばにいるわ。大丈夫よ。アイちゃんはいい子だって、私は嫌になるくらい知っているんだから」
おそるおそる、ブラウスをつまむと、コンスタンティアは少し離れた。
「それを着たいなら、きっと、黒いパンツが似合うわ。アイちゃんは足が長くて綺麗なの。膝の形がとっても綺麗で、私はお気に入りなのよ。だから、短いものでもいいわね」
「そうする。ありがとう。おまえは、センスがいいから」
「私はなかなかおしゃれができないから、代わりに、アイちゃんに可愛かったりかっこよかったり、そうね、いろんな服を着てみてほしいって、思っているの」
言われた通りに、クロゼットから黒のショートパンツを取り出した。合わせてみると、確かに、自分でいつも選ぶ組み合わせよりは自分が生かされているという気分になる。自分に似合う服を、着るということ。自分が確立されているということ。ずきりと胸にきて、今までもやついていた自分の姿がはっきりして、奥の方にある本当の気持ちに触れたような感じがした。
幼い頃から、気持ちを押し込めている。両親と暮らしていたころは、家の中を飛び交う罵声とか、金切声におびえて、布団にうずくまっていた。たまに、これは、まだ理解ができないのだが、仲良くあたしを置いて出かけていくときがあった。穏やかな気持ちになれたのを覚えている。夜中にゲームをする父親の背中とテレビの画面を、ばれないように、数時間黙って見ていたものだから、やってみたくて、コントローラを握ってみる。
今日と同じような雨の日曜日だって、あたしの父親は、ゲームをしていた。そのときに、あたしにもやらせてとお願いしたことはない。後ろで見ているだけで、遊ぶのは、両親がいないときだけだった。
母親に対しては、何も思わなかった。父親がいないときは、眠っていた。ただ、なんとなく生きていけるだろうというくらいの食事をあたしに与え、買い物のついでに、最低限必要なものだけを買い与える。テレビを見ていて、欲しいおもちゃがあったことがあった。ケーキをつくるおもちゃ。一度だけ、母親におねだりしてみたことがある。母親は、ファッション雑誌を見て、『ケーキなんて、買えばいいでしょ』と言った。ケーキなんて、買ってくれたことないくせに。
嫌いとか、好きとか、まっすぐな感情じゃない。学校でまわりから聞く家族の話、本やドラマで得られる、『ふつうの家庭』の情報に、むかむかして、どうしてあたしが、あたしだけがこんなに苦しい家に縛り付けられていなくてはならないのかと。
刃物が飛ぶ日もあった。雨風はしのげる場所だった。でも、大人からの暴力や、暴言、肺を蹂躙するたばこの煙なんかからは逃れられない。よわい子供は、どこに助けを求めればいいのかもわからなくて、ただ、いつ命が奪われるかわからない場所で眠るしかなかった。紛争地帯の子供よりずいぶん幸せなんて、言わないでほしい。あたしの世界はここしかない上に、地獄だったのだから。
「コンスタンティア、あたしが、おまえと出会わなかったら、どうなっていたろう。死んでいたかもしれない。あたしはこのうちで、あと数年だって生きる我慢もできなかったかもしれない。あたしはおまえと出会って、はじめて、人間になれたのだと思う」
何かを主張できる自由。二本の足で立って、歩き回る自由。家という牢獄から抜け出して、子供のようにスキップしたのを覚えている。家の中は、血で赤かった。
コンスタンティアは優しい。いつまでも、どこまでも。あたしの後ろにいて、ドラマで見た母親や、姉とはまた違うけれども、あたしの心を安定させて、安心させる。
「悩んでいたの。今は違うわ、正しいことをしたって思ってる。これから、長い時間を生きていなくてはいけないアイちゃんには、あまりにも過酷すぎたもの。だから私は解放をしたわ。アイちゃんに幸せになってほしかったし、お母様たちは、アイちゃんを幸せにしようなんて思っていなかったもの。アイちゃんだって、家族のことを欠片だって愛してなかった」
「そうだった。間違いない。あたしの中で、ただ恐怖として存在していたんだ」
「ただ、私は、アイちゃんを人間でなくしていくお母様たちが憎くて仕方がなかったのよ。アイちゃんが生まれたときは嬉しかったでしょうね。私もそうだったし、たくさんのことをね、アイちゃんに言われて考えたわ。子供は、ものじゃないんだって。生まれたら、終わりじゃなくて、この先何十年も存在していくし、その責任をとらなければならない。お母様たちはアイちゃんに責任をはたさなかった」
立って、歩けて、話せるよろこび。人として当たり前の権利。たくさんの心と、体に残った傷。消えはしないが、癒すことはできる。人間は忘れることができる。楽しかったことも、そして、難しいけれど、嫌だったことも、いつかは忘れて乗り越える。それが、あたしには、少し早く、たくさんのことがおきすぎただけだ。あたしにはコンスタンティアがいる。それでいい。コンスタンティアが、あたしの手を取って引き上げてくれる。コンスタンティアが悩んだときは、あたしは、隣で話を聞いて、触れる。引き上げるまでの力はないけれど、コンスタンティアは強いから、自分で上ってこられる。
「お母様に会うのは、久しぶりで、緊張するわね」
無邪気に笑う。あたしも、同じように笑顔を返してみせる。
「元気でいると、いいけれど」
深泥池精神病院へは、バスで二十分ほど。その間は、イヤホンで、お気に入りの古い洋楽を二人で聴いていこう。
君に恋しそうなんだ。一度のキスで恋に落ちるんだ。一度だけでいいからさせてよ、一度だけ。キスさせて、キスしてよ。ああ、なんて、まっすぐで、馬鹿らしいんだろうって、二人で口を大きく開けて笑いたいから。
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