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2024/05
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 カチカチと鳴る新品のコントローラーの音。初めて遊ぶゲームのはずなのに、シヅルの選んだ天使のキャラクターは、あたしのマルスをどんどん倒していく。どれだけ攻撃のボタンを押しても、避けられるか防がれるかで、ほとんどダメージさえ与えられない。
「ね、シヅル、ほんとに一回もやったことないの?」
 五回ほど遊んだところで、シヅルははっとした。
「あ、ああ、ごめんね。アイさんは初めてだもんね。僕は一応、このゲームはやったことがないんだけど、動画を見たことがあるんだ。すごく、やりたかったから。それで、ずっと見てたら覚えちゃって……」
 やったことがないゲームなのに、動画を見ただけでやりかたがわかるってこと? すごいな。じゃあ、あたしじゃ、対戦相手としては物足りないか。
「あのさ、ネット繋げてるの、これ。他の人と対戦したほうがシヅル、楽しいんじゃない?」
「え、でも、いいの? アイさんと遊ぶって約束だったから……」
「いーの。シヅルがどこまで勝てるか気になるし。見てたいな」
 そう言うと、やっぱり、シヅルは他の人と戦ってみたいようで、少し笑った。ありがと、と言ったあと、早速インターネットに繋げてみて、対戦相手を待ってみると、すぐ見つかったようだ。
「なんだか、緊張するな」
 握られた黒いコントローラーは、自身ありげだし、シヅルはすごく楽しそう。焼いたスコーンをツォハルとあたしで食べながら、画面とシヅルを見守る。シヅルが選ぶのは、さっきの天使のキャラクターだ。
「そのキャラ好きなの?」
 尋ねると、照れながら答える。
「え、なんだか、天使だし、ちょっとツォハルに似てるなって。なんとなくだよ」
 そんなシヅルに、ツォハルはあたしを見て、首を振る。似てないって、そう言いたいらしい。確かに、ゲームのキャラクターは明るくて子供っぽい印象で、天使だけれど、ツォハルのように神々しさは感じない。きっと、下級の天使なのだろう。
 そうしている間に対戦が始まったけれど、相手の動きはあたしなんかより全然動けているのに、シヅルはそれについていくどころか、圧倒する。それからまた数戦やっているけど、シヅルは全て勝ってしまった。何度もやるたびにコツがさらにわかってきたのか、どんどん攻撃を避けて、隙を見つけてはダメージを与えていく。
 きっと画面の向こう、回線の向こう側の人はシヅルよりはたくさんゲームをやってきた人だろう。シヅルは今日はじめて、あこがれのゲームをしている。何度も動画を見ていたって、最初からこんなにもうまくやれるものなの?
「すごいね、シヅル。また勝っちゃった」
「え! そ、そうかな。でも僕じゃないんだ。頭の中で声がして、ここはこうしろって言って、それに従ってるだけだよ」
「声?」
 僕じゃない? 今コントローラーを握ってるのはシヅルなのに?
「昔から、そうなんだ。本当の僕は勉強も、運動も苦手なんだ。でも。頭の中の声が、ここはこうするんだって教えてくれるし、一度読んだ本や、教科書は全部声が覚えてた。だからさ、あの、まあ、世間に悪いから勉強はしろって言われてて、家で形式的にはしてたけど、集中なんてできないんだ。それで、さ、学校でぱらっとプリントや教科書を流し読みするだけで、声が覚えて、応用もする。テストの時、頭の中で答えはこうだって声がするんだ……」
 さっき、成績がいいから、すごく頭のいい大学に入れるのに勿体無いって言っていたっけ。声。誰の声なんて、そんなのわかってる。
 シヅルの隣でマフィンをいただいている、金髪の御使い。ツォハルにまちがいない。コンスタンティアは、悪魔に憑かれた人間は才能や知識を得ると言っていた。
 コンスタンティアが最初に憑いだ人間は芸術家で、とても有名になった。あたしは、料理が本当に、すごく、おいしいらしい。だからコンスタンティアの与えるものは、つくること。いいものを作る才能なのだろう。
 ならば、ツォハルに憑かれたシヅルは、たとえば神のお告げみたいに、ツォハルの声を常に聞いていたんだ。それは、きっと、異様な記憶能力として表れているに違いない。
 そう考えながらも、シヅルはやっぱりどんどん勝っていく。
 こういう人間が、きっとこれまでも世界を変えていったのだろう。ならばやっぱり、シヅルはツォハルと一緒に自由にさせてあげたい。きっとシヅルは、世界を良くするような、そんな人間なんじゃないかと思う。どこまでだって賢くなれるし、どこまでだって学んでいけるってことだもの。
 しきたりが嫌で深泥池から飛び出して狂った、シヅルとあたしのお母さん。アキラは、兄のヤマトは二人の悪魔を殺して死んだと言った。……御使いに憑かれれば、狂わない? シヅルには『昔から』ツォハルがいたようだし。なら、やはり、この狂った土地から出さなければ。
「アイくん! これはとても美味しいね。よければまた作ってくれないか?」
 ゲームに集中するシヅルに、ツォハルは今も声を送っているのだろう。ツォハルの表情は穏やかだ。
「うん、簡単だし、おやつにまた作るよ」
「いいわね、ツォハル……」
 と、コンスタンティアはツォハルとは違い、寂しげだ。そうだよな、あたしが気を使わないといけないけど、でも、どうしたらいいかわからない。
「きみは、食べないのかい?」
「……ふふ、食べられるけど、食べられるけどね、お腹に穴があいてるでしょう、私。だから、食べたものはここに落ちてきちゃうの。アイちゃんの作るものは美味しいけれど、そうやって私は食べても汚らしくしてしまうから。だから、食べないわ」
「味覚はあるのに?」
「ええ。私はアイちゃんが大好きだから、アイちゃんの作ったものを、汚くしてしまいたくないの。においをかぐだけで十分だわ」
「それはなんて、ひどい呪いだ……。悪魔ってのは、こんなことをするのか?」
 ツォハルは驚いているようだった。呪いだとか、そういうのが、やっぱりわかるのか。
「いいえ、これは罰なのよ。私の罪なの。私は罪人なの。だからなの」
「……強力すぎて、ぼくにはどうにもなりそうにない。まさか、こんなひどい……、こんな綺麗なひとに対して、ひどすぎる」
 コンスタンティアは悪魔の王様に子宮を取られたと言った。子宮どころか、お腹ごと赤ちゃんも持って行ったのだから、そのあたりの臓器、悪魔の体のしくみはわからないけれど、それを持って行かれたのだろう。キラキラ輝く、氷のような背骨。
「呪いを解く方法をぼくが探してみよう、知り合いにたしか得意なのが……」
「やめてちょうだい!」
 ツォハルを止めるコンスタンティア。シヅルもびっくりして、コントローラーを落としてうずくまる。あたしも、急に大きな声を出されて、頭を抱えた。
「あ、ああ! 二人とも、ごめんなさい。大きな声が、苦手だものね、ごめんなさい。大丈夫?」
 あたしは黙っている。シヅルも黙っている。ツォハルはシヅルに駆け寄った。
「シヅル。ぼくの呼吸にあわせて。大丈夫だ、もう誰も殴ったりしないよ」
 過呼吸になっているシヅルの背中をさすりながら、わかりやすく呼吸する。
 あたしにもコンスタンティアが寄り添って、あたしの背中を抱いた。
「アイちゃん、落ち着いて、私がいるわ。本当に、ごめんなさいね」
 柔らかい胸。香るのは獣と女のにおい。胸と胸をあわせて、鼓動を感じていると、古くてしまっていた記憶を、なんとか片付けることができていく。最後のにおいを肺にたっぷり押し込めたあと、シヅルも落ち着いたのか、よろよろとコントローラーを拾った。
「……つい、大きな声を出してしまったわ。ごめんなさい。シヅルくんも、大丈夫で良かったわ」
「いや、デリケートな話に突っ込んで悪かったね。ぼくも。すまない……」
「一応説明しておくと、私はこの呪いを受け入れているの。もちろん、今日みたいに悲しくなる気持ちになることもあるけど、呪いをといたら、またあやまちを犯してしまうからよ」
「そ、う、か。きみの力になれればと思ったんだが……」
「今で十分、なっているわ。御使いが私を殺しにこないか心配で、なかなか寝付けなかったの」
「ああ、そのことは本当に安心してくれていいよ。この地に来るな、って言ってあるから。姿を見ることだってないはずさ。今日からしっかり眠るといいよ。お肌に悪いからね……」
 そう言ったツォハルに、コンスタンティアはクスクス笑った。コンスタンティアの肌は緑だもの、肌を気にしたって、つるつるして、できものがある事なんて見たことがない。
「ふふ、そうね。ありがとう」
 シヅルも落ち着いて、ゲームに戻ったところに、キリのよさそうなところで声をかけてみた。
「ね。交代。あたしの選んだやつやりたいな」
「あっ、そうだよね! じゃあ、終わらせるよ」
 シヅルはにっと笑った。ゲーム機に近づいて、ディスクを入れ替える。きっと、すごく楽しかったろう。
 今度はあたしがコントローラーを握る。可愛らしい、カートゥーン調のキャラクター。
「女の子、すごく可愛いね」
 と、シヅル。たしかに、ガールと表示されているキャラクターはとても可愛い。ガールを選び、肌の色は白めで、ピンクの目。これがあたしの、キャラクター。
 チュートリアルがはじまって、慣れないコントローラーにまごまごしながらも、ゲームの舞台である街に辿り着いた。ネットに繋いで対戦してみるけど、なかなか難しい。
「アイさん、アイさん、これ、敵を倒すゲームじゃないんだね」
「ん、そうだね。自分の色を広げるゲームだね」
「楽しそう。塗っていけば、動ける範囲が広がって、敵を倒しやすくなって、また色を塗れる……、ってことかあ」
 ……これはツォハルの声? それとも、シヅルの声?
 なかなか勝てないんで、ちょっとやってみてとシヅルにコントローラーを渡してみると、数戦でルールがわかったらしく、どんどん塗って、どんどん敵を倒していく。同じ武器で、同じキャラクターのはずなのに。
「わあ、これも楽しいね、アイさん!」
 はしゃぐシヅルを見ていると、あたしも楽しい。だって、こうやって友達と遊ぶことなんてなかったから。ずっと怒られて、怒鳴られて、汚い格好で外に放り出されて。
 今じゃ、家の中で友達とゲームをしてる。小さな頃のあたしに伝えてあげたい。じきに、楽になれるから。助けてくれるから、だから、耐えてねって。言ってあげたい。そうしたら、今のあたしも、大きな声に震えなくて済んだかもしれないから。
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 部屋に響くインターホンの音がこんなにも楽しみになったのは、二回目だった。午後の三時ごろ、オーブンレンジからチョコレートスコーンを取り出していると、それは鳴る。
「開けてるから入っていいよー!」
 そう廊下に向かって叫ぶと、ゆっくりと玄関の扉が開いた。シヅルだ。
「あ、いい匂い……。お邪魔します」
「ちょうどね、今焼けたの! 待っててね!」
 テーブルに並べた焼きたてのスコーンを見て、思わずか、姿を見せていなかったツォハルがシヅルの隣から現れる。
「アイくんの手作りかい?」
「うん、そう」
 ツォハルは犬みたいに鼻をひくひくさせて、目をきらきら輝かせる。ツォハルは、あたしの料理が好きだと言っていた。これまで色んな、人間のものに対して無関心だったけれど、あたしの料理だけはそうでもないと聞いたから、材料の限界までたくさん作ってみた。食べきれなれば、明日の朝ごはんにすればいいもの。
「すごいね、アイさん、色んなもの作れて。ツォハルたら、今日来るまでの間、またアイさんのごはんが食べたいってずうっと言ってたからね。すごく美味しそうだ、ね、ツォハル」
「お、おい、言うんじゃないよ、もう! ……と、はいえ、事実だからね、ぼくはアイさんのつくるものは素晴らしいと思うし、認めているんだ」
 シヅルとツォハルのやりとりは、男と女の間にいるみたいだ。あたしとコンスタンティアみたいにべったりでもないけれど、男同士みたいにドライでもない。コンスタンティアは笑う。
「アイちゃん、将来はパティシエとかになるといいかもしれないわね」
 ……将来の夢。そうだ、あたしは、昔、ケーキを作るおもちゃが欲しかったんだ。考えたことがなかった。そんな余裕がなくて、何年先のことどころか、一週間後に生きているか保証が全くない世界で生きてきたんだから。
「うん、お菓子作るの好きだし、そんなに美味しいなら、いいかも。シヅルは、将来の夢とか、ある?」
 はっとして、シヅルは悲しい目になる、あの目だ、大人の目。全てを諦めた子供の、目だけが大人になった、いびつな表情。
「将来の夢。かあ。アイさんなら、わかってくれると思うけど、僕はそんなことを考えてられるような気持ちの余裕が小さい頃からなくって、多分、大人になるまでに死ぬだろうって思ってたから、わからないや……」
「ううん。あたしだって、今コンスタンティアに言われてそう思ったから。もう、将来を選べるから、考えてみてもいいかもね」
 あたしは決めている。どちらかはこの呪われた地に残らなければならない。それなら、あたしが。あたしにはやらねばならない理由が積み重なって、どっちにしろ、この地から動けないのだから。
「シヅルは、学者なんかが向いてるんじゃあないかな?」
 ツォハルは笑いかける。
「そうだなあ。前の学校で、いい大学に行けるから勿体無いって言われてたんだ。やりたいこと、好きなこと……。昔、よく、夜に家から放り出されていたんだ。その時、空をずっと見てた。あたりが眩しくて見えないけれど、でも月と、かろうじて少しの星が見えてね。こっちに来て、空をゆっくり見上げてみたら、とっても綺麗だった……」
「じゃあ、天文学者とか、いいんじゃないかしら? それとも、頭がいいのなら、宇宙飛行士にだってなれるかもしれないわね」
 コンスタンティアの言葉に、シヅルは強く頷く。
「なりたい。天文学者、いいな。なりたい……」
 幼稚園児や小学生の頃、あたしたちは将来の夢を聞かれたはずだった。ピンクのエプロンをした先生に、『アイちゃんは、大人になったら何になりたいの?』と聞かれて、何も知らなかったあたしはなんて答えたんだろう。そもそも答えられたのかな。十歳のころ、半分の成人式ということを学校でやったことがある。将来のことを考えて作文を書いて、たくさんの親御さんと先生の前で発表する。
 その時のあたしは現実を見ていた。将来の夢なんて、見てはいけない、見れば苦しむことを知っていた。もちろんあたしのお母さんやお父さんは半分の成人式に来ない。あたしは保健室で、泣きながら書いた作文用紙を握りしめてくしゃくしゃにして、白いシーツの中で、家でしているように震えていたんだ。
「良かったわ、二人がそうやって自分の道を定めていける心の余裕ができるようになって。私はそのお手伝いができるといいと思っているわ。それってとっても素敵なことなんだもの……」
「ぼくはさ。アイくんにも、シヅルにも、頑張れとは言えないよ。今まで頑張りすぎていたからね。でも、希望を持って生きることができるようになったのは、嬉しいな。ぼくもできうる限りの助言をしたい」
 悪魔と御使いは優しい。死の匂いとは関係なく、あたしたちの人としての存在を認め、愛してくれる。きっかけが何であれ、今がそうであるなら。
「と、ところで、アイくん。これはいただいてもいいのかい?」
「どうぞ。たくさんあるからね」
 ツォハルは椅子に座る。シヅルはとなりに座る。
「飲み物、何がいいかな。紅茶、コーヒー、あと牛乳と……、あわないかもだけどコーラがあるけど?」
 キッチンから問う。
「うんと、コーヒー、牛乳入れてほしいな」
 と、シヅル。ツォハルは黙っている。
「ああ、ツォハル、わからないのか。同じのでいいよ。美味しいから、大丈夫」
「わ、わかった。アイくんが出すものなら何でも美味しいだろうからね」
 そのやりとりがおかしかったのか、コンスタンティアはくすくす笑っている。あたしもにやつきを背中で隠しながらコーヒーに牛乳を入れ、せっかくだからあたしもと三人分を用意したあと、ゲームのコントローラーを机に置く。
「セッティング済みだよ! おやつ食べながらするゲームはね、最高なんだ」
 スイッチを押すと現れる起動画面に、シヅルは声を上げる。
「わあっ、すごい……」
 おそるおそる、黒の、シヅルのコントローラーに触れる。手元とテレビ画面を見て、口を開けっぱなし。……ずっと、欲しかったし、やってみたかったんだよね。あたしもそうなると思うもの。ゲームのタイトルのアイコンを押すと、音がなって、ロード画面になった。喉仏の目立たない首が、ごくり、と動く。
 暗転。現れたタイトル画面。
「あ、アイさん。ありがとう。今日、その、持ってきたんだけど……」
 鞄の中から財布を取り出して、あたしがあの日渡したぶんと同じだけのお金。
「え、半分でいいんだけどな」
「おじいちゃんがさ、二人で遊ぶものならそれくらい買ってやるわいって! と、いうか欲しいならおじいちゃんに言いな! って笑ってた」
「はは、そっか。わかった」
 欲しいものを欲しいと言えないあたしたち。欲しいものを欲しがってはいけなかったあたしたち。普通の子供たちは、なにかの記念日にものを買ってもらえるのだろう。誕生日に買ってもらったおもちゃを自慢する子。
 あたしの誕生日って、いつだっけ?
 あたしって、誕生日を祝ってもらったことがあったかな。
 あたしって、本当に生きているのかな。あたしがおかしいのかな? あたしがいないのかな。
 あたしはいない。そこには、誰もいない。夕方のブランコは揺れているだけで、そこにいるはずのあたしを周りは見ないように、知らないふりをするから、あたしはいなくなる。この地球から、宇宙から。あたしのことを考えてくれる人がいなくなれば、あたしはいないのだ。
「アイちゃん。アイちゃん、大丈夫?」
 目を開けた。コンスタンティアの綺麗なカナリヤの声が頭に響いて、あたしは現実に戻る。焼きたてのマフィンの香りと、心配そうにあたしを見るツォハルとシヅル。
「……どうしても、ぼくにはわかってしまう。アイくん。アイくんの感じていることを、ぼくもひしひしと感じているよ。これからは、他の人間や悪魔は死んでしまうかもしれないが、ぼくは、ずっとずっとずっと、アイくん、そしてシヅル、コンスタンティア、皆を覚えているよ。精神は永遠に生き続けるんだ」
 ツォハルはあたしの手を握る。暖かくて、人の体温がした。ゆるいウエーブのかかった金髪が、蛍光灯に照らされてきらきらと輝く。あたしの苦しみを吸い取っていくように、どんどんと不安があたしの体から抜けていく。
 たくさんの、邪魔な日々の不安と、苦しみ。ツォハルはまとめて取り払う。コンスタンティアが狙われることも、シヅルを救ったことも。あたしがあたしでなくなることを止めることもできる。
 ツォハルが手を離すと、重たくなった胸が軽くなったようだった。
「アイさん、ツォハルはすごいんだ。ぼくは力になりきれないけど、ツォハルならたくさん考えて、解決に導いてくれるんだよ。僕もそうしてもらっていたんだ。だから、ツォハルが必要なら、僕も協力するよ」
「私は、ずっと隣にいるわ。アイちゃん。私にはそれしかできないけれど、私にしかできないことだから」
 優しくされることに、未だに慣れない。こうやって接してもらって、本当にいいの? あたしがそうすることはできる。あたしは痛みを知っているから。いろんな痛みを、大きなものから小さなものまで。
 あたしは怪我をして、そのまま血を流しながら、体を引きずって生きていた。それをコンスタンティアと出会ってから、ゆっくりゆっくりと止血していた。
 その血を知っているから、あたしやコンスタンティアはシヅルを気遣って接することができる。けれど、あたしがされると、嬉しいけれど、こそばゆくて、不思議な気持ちだ。甘えることを少し躊躇する。
 怪我人どころじゃない、精神的に四肢を切断されたような気持ちで、芋虫みたいに這って生きてきたことを隠し、普通の人間として振舞って嘘をつくのはひどく苦しい。
 実際に手足のない子供ならば、大人たちは助け、慈悲をくれるはずだ。そんな生き物なのだから、彼らは、彼女らは。
 うまく生きていけないのを、無い手足を使って必死で這って進んでいることを、あざ笑って、馬鹿にして、殴りつける。そんな生き物なのだから、彼らは、彼女らは。
 理解しろとは言わない。経験したことのないことはわからない。あたしだって、普通の人生がわからない。人間を馬鹿にすることはいけないって、義務として学ぶことにあるはずなのに、心の弱った人間を攻撃するのは、それは彼らが動物だからに違いないのだ。
 あたしも、そうでないあたしも、そう思っている。たとえ言葉が通じても、それは自分が心地よく生きることしか考えていないのは、動物だからに違いないからだ。
「アイさん。つらいなら、休む?」
「ううん! 大丈夫、遊ぼ!」
 アキラとそのまま手を繋いで、アパートに帰ってきた。玄関に置かれたおもちゃ屋の袋に飛びついて、さっそく接続してみる。
 いつもやっていたのがファミコンだから苦労したけれど、携帯で調べながらなんとか家のテレビに画面をうつすことができた。
 おじいちゃんが買ってくれたテーブルは四人掛けで、そして、テレビも大きい。一人だから大きいのなんていらないと言ったけど、大きい方がいいといって買ってくれたものだった。
 遊びたいけれど、シヅルと一緒にやっぱり、最初はやりたいな。設定を終わらせて電源を切ると、もうすっかり夕方だった。
 飴を口の中で転がしながらおもちゃに悪戦苦闘するあたしを眺めていたコンスタンティアは、もういちごミルクを食べ終わってはちみつに移行している。
「いろいろあって、疲れちゃったな。ご飯どうしよ……」
 仮面ライダーの男の子、アキラの覚悟と刃。くったりと椅子にかけると、コンスタンティアは飴を差し出してきた。
「アイちゃん! これ、とっても美味しいわ」
「ん、そっか。ありがとう。気に入ったんならよかった」
 緑の手から飴を受け取って口に入れると、甘みが一瞬で頭の中をぐるぐる回っていくみたいで、相当疲れたんだな、と、ふっと息を吐いた。
「お腹減ったのなら、私が何か作りましょうか?」
「ううん、いいや、今日は。食べない」
 あまりそういう気分でもないし、昼間たくさん食べたし。暖かい羽布団にぐったり横になるのを、コンスタンティアはベッドに座って、あたしの頭を撫でる。
「そう。本当は食べて欲しいけど、無理やり食べるのもよくないものね」
「飴が甘くておいしいよ」
 じんわりと溶けていく甘さは、まるで、愛を感じているときのあたしみたいだ。愛されていると、全身がとろけそうなくらいに幸せに浸れる。撫でられていると、気持ちがよくなってゆっくり目を瞑る。
「アイちゃん、変わったわね。はじめて会った頃よりずっと、ずっと、優しくて素敵で可愛らしくなったわ。やっぱり、友達ができたからかしらね……」
「そうか?」
「ええ。言葉遣いも柔らかくなったし、すごく優しくなったわ。でも、少し寂しくもあるの。私は以前のアイちゃんが好きで一緒にいて、ああ、もちろん、前のようにしてと言ってるんじゃないわ。でも、私とこうやってお話する時間が減っていくのは、アイちゃんの幸せを私は願っているから、嬉しいのだけれど、やっぱり寂しい気持ちになるのよ」
 確かに、シヅルやアキラと話をしはじめて、コンスタンティアのことは放ったらかしだった。
「ごめん、それはあたしが気遣うべきだった」
「違うの。今のままでいいのよ、シヅルくんたちとたくさん遊んで欲しいわ。私にはできないことだから。……ごめんなさい、言うべきじゃなかったわ。閉まっておくべきことだった。忘れて、アイちゃん」
「いや、忘れられない。あたしの一番はお前なんだから」
 揺れるカーテン、揺れる緑の髪、揺れる異形の影。一番揺れているのは、そのどれでもないんだ。
「……アイちゃんが幸せなのが、私の幸せなのは変わらないわ。いつだって。アイちゃんが楽しそうにしていると、私も楽しいの。でも、その、私ってこんなに醜い心の持ち主だったかしらって、アイちゃんは誰のものでもないのに、私のものなんじゃないかと、錯覚してしまうことがあるわ。きっと、二人で過ごした時間が長いからよね」
「今のあたしは縛られない。だけど、そうだな、前に話したように、あたしがこの世界に嫌気がさした時は、その時はおまえについていきたいと言ったし、今も思っている」
「そう。嬉しい。そうね、悪魔になる方法を、私がその時どんな状態でいるかわからないし、アイちゃんは少し大人になったから、教えてあげる。人間が、悪魔になる方法。シヅルくんや、アキラくんに言っちゃだめよ。ツォハルはいちばんだめだわ」
 それは落ち着く方法でしかなかった。解決法ではなかった。あたしとコンスタンティアが手を繋いで歩いてきた道、いくつもの分かれ道に、黒くて太いマジックペンで書いたようなはっきりとした道が現れるだけだ。
「悪魔の体液を体にいれるの。一番簡単なのは、血を飲むことよ。それからこの世の大地を、この世の海を、空を、生き物を全て憎みながら命を落とすのよ。それでも、誰だってなれるわけじゃない。深く憎んで、それで死んで行かなくちゃならないの。だって、悪で、魔なんだもの」
「……おまえは、元々、人間だったのか?」
「いいえ。私は悪魔の子よ。それは、リリンと呼ばれるわ。リリンは弱くて、はかないの。何も恨んで生きていないから」
 憎むのは簡単だ。あたしはこの世が嫌いだから。それでも、数少ない友人のシヅル、アザミ、アキラ、ツォハル……、それからおじいちゃん、コンスタンティア。以前のあたしなら簡単だったろう。助けを求めて叫んで手をのばしても、その手を見ながら嫌らしくくすくす笑う大人の顔を覚えている。
 でも今は、本心で笑いかけて、あたしのことを気にして、考えて、行動してくれる人たちがいる。あたしはその人たちのことも憎めるかと言われれば、もう難しい。あたしは、コンスタンティアと一緒にいたいという気持ちが一番強いけれど、大事なものをたくさん見つけすぎた。
「アイちゃん。私はとっても嬉しいの。アイちゃんは、いつまでもアイちゃんでいてほしいわ。アイちゃんのまま、優しくて賢い大人になってね。私の方が、もう子どもかもしれないわね」
「コンスタンティア」
 名前を呼ぶ。あたしが上書きした、コンスタンティアという名前を呼ぶ。起き上がって、腰に抱きついて、そして呼吸をする。コンスタンティアのにおいは、少し獣っぽく、そして、女のにおいがするんだ。
 大きな膝の上。見上げると、優しい、そう、慈愛にあふれた顔をしている。こんな悪魔が悪魔なんて呼ばれることはおかしいと思っていたんだ。本当に悪魔なのは、悪魔なんかじゃなく……。

 ベッドの隅に置いていた携帯から、黒電話の音がする。急いで目をやって、番号を眺めたけれど、あたしは約束を忘れていなかったことに安堵した。コンスタンティアが携帯をとってくれて、あたしはそれを受け取った。
「もしもし、橘です」
「あ、アイさん? 僕です、シヅル」
「うん、わかってるよ。ありがとう、後で登録しておくよ」
 遊びの約束をまたする、はずで電話番号を教えたけれど、シヅルの声は落ち着き払って、真剣な様子だった。
「その、灰淵さんとはどうだった?」
 ああ、そのことを気にしてくれていたんだ。
「これは、あたしからは話せない。いずれ、シヅルにも聞かせるって言ってた。とても大事なことだから。だから、アキラは、優しいから、本当は……。誤解しないでね」
「そ、っか。わかったよ。僕も覚悟はしているんだ。そして、少しだけど、僕のほうもツォハルと話をして、わかったことがあってね。おじいちゃんにも悪魔か御使いがいるはずでしょう? でも、おじいちゃんのそばには全く気配がないってツォハルが言ってた。でもきっと、おじいちゃんにだって誰かいるはずだって、ツォハルが探したんだ」
 そう、おじいちゃんは人ならざる者と、この地を守っているはずなのだから。
「いたの?」
「……僕にはわからなかったけど、ツォハルは見える、いるって言ってた。多分、見えない術をコンスタンティアさんみたいに使ってるんだと思う。池にいたんだ、大きくて、長い竜が池にいたって」
 どうして側にいないのだろう? その竜がおじいちゃんの悪魔か御使いなら。池を邪悪な力から守るために、しなければならないことは。
「……そっか。ありがとう。おじいちゃん、すごく頑張ったんだね」
「そうだよね……。おじいちゃんが不安そうにしてるのは、僕は来たばかりだし、わからないし見てないけど、きっと不安だと思うんだ」
 決意、血のさだめ。産まれたからには、しなければならないこと。それがあるだけで、他の人間より生きる価値があると思える。どんなに酷い目にあっていても、自分と、自分を信じてくれる人がいるから。
「そのあたりは、アキラと、おじいちゃんから話があってからにしよう。あたしたちが変に嗅ぎ回って余計なことしちゃうとまずいから。で、明日、今度こそさ……」
「あ、いいの?」
「もちろん。お昼どうする?」
「うーん、また、って迷惑そうだし、おじいちゃんも僕にごはんをって張り切っててね……」
「ふふ、そっか。じゃ、おやつ時に来て。おやつ用意してるから。ツォハルは食べるかな?」
「食べると思うし、食べたがってたよ。人間のものにあまり興味がなかったけれど、アイさんのご飯はすごく美味しかったんだって」
「そう、ツォハルにありがとって言っといて。じゃ、切るね。また明日」
「わかったよ。おやすみなさい……」
 電話が切れて、すぐに番号を登録し、またベッドのすみに置いた。コンスタンティアは、優しい顔と、悲しい顔をする。なぜかはわかってる。
「変なこと考えてる?」
「え! あっ! そうね、変なことかも。ふふ……」
 体温は冷たい。心は暖かい。さらさらの緑の髪に、手櫛をいれてみると、一度もひっかからない。
「あたしのこと信じて。あたしはおまえを信じたから」
「わかってるわ。信じてる。愛してる。でも、自分が信じられないの。こんな、思いになるなんて思わなかったから」
「それでもいいさ、あたしはどんなおまえだって受け入れるって、あの時さ、決めたんだ……」
 喧嘩したとき、あたしは大切なものを失ったけど、もう一つの大切なものを失いたくなかった。あたしはまた孤独に戻ることだけを恐れていた。理解者を失うこと、毎日顔を合わせて、話をして、一緒に眠る相手を失うことを、ひどく恐れていた。
「あたしは、コンスタンティアのことを、この世で一番愛してるって、知ったんだよ」
「あ、アイちゃ……」
 たとえ心で通じ合っていても、言わなければ不安になるし、隠したい気持ち、わざわざ言葉にしたくない気持ちもある。でも、声にしたい気持ちだった。コンスタンティアは顔を赤くして、氷の涙を流す。あたしはそれをすくうみたいに、頬にキスをする。
 そのままベッドに倒れこんで、見つめ合いながら、ゆったりとした時間の流れの中で、睡魔が二人をさらっていくのを待つだけだ。
 いつか来る日を恐れたりしない。それがあたしの生きる道なら、あたしはそれを奪われたくない。あたしは決意の力を持っているはずだから。
「すまないな、橘。じいさんから、頼まれてな。うちから話をしてくれと。二人とも、じいさんを信じられなくなったらどうなるかわからないだろ。ただ、灰淵から話せるのはここまでだ」
たしかに、そうだ。おじいちゃんから恐ろしい話を、この話をされてあたしがおじいちゃんを嫌うわけがない。だって優しくて、面倒を見てもらっているんだもの。でも、おじいちゃんが灰淵に頼んだ理由だってわかる。おじいちゃんの娘、あたしたちのお母さんは、しきたりが嫌でこの地を飛び出したと聞いたから。
いまのおじいちゃんの立場を継ぐってことは、すごく、すごく、嫌なことなのか、嫌なことをしなければならないのかもしれない。
この、田舎の深泥池からほとんど出られないし、灰淵に常に監視されている。
「わかった、大丈夫」
そう答えると、アキラはまた押入れを開けて、布に包まれた何かを座卓の上に置いた。包みを解くと、それは、短刀だった。銀色にきらめく短刀。
「持っておいてくれ。護身用に。と、いうか、オレの気持ちとして」
「気持ち?」
「ああ、これはな、オレが小さい頃に使っていたんだ。小さい頃、オレと兄貴は腹をこれで切っていた。死により近付くために。オレたちは死の淵に立って、死を見るたびに悪の力を得る。オレには、もう、必要ないし……。橘アイ、お前に、持っていてほしい」
腹を切ることを強いられる家系。人は死の淵に立つと、普段の三割ほどしか使っていない脳みそがリミッターをはずし、強い力を出せるようになると聞いたことがある。だから『灰淵』……。
あたしは短刀を手に取った。子供でも、握れる重さ。軽く、そして軽く命を奪えるもの。
「受け取る。ずっと持ってる。手放さない」
その刀を。アキラの気持ちを。
「警察に話は通してあるから、大丈夫だ。これまで変にきつくあたって、すまなかったな。仲良くすれば、いざって時にお前や、その悪魔を奪えるか心配だった。そうしなければならないことを、恐れていたんだ。ただ、ふふ、兄貴の亡骸を、この写真を見て思い出してな。オレは使命を果たす。そのためにこの世に生を受けたと」
「悪魔を殺したことはあるの?」
刀を包みなおして、あたしのそばに置いた。コンスタンティアは、雰囲気を察したのか、ずっと黙って、アキラの話を聞いている。
「何度も。と、いうか、そこら中にいるんだぜ。例えば、特別な才能を持った人間ってのがいるだろ。絵がうまかったり、走るのが早い、歌がうまい……。そういうのには大概悪魔が憑いている」
これまで黙っていたコンスタンティアは、はっと声を上げた。
「そうだわ。悪魔には知識があるの。それを、無意識に人間に、才能として与えるのよ。私がアイちゃんの前に憑いていたのは、芸術家なの。すごく、有名になったわ」
「それって、あたしも絵を描けばうまいのかな?」
コンスタンティアに問うと、そうね、とコンスタンティアは腕を組んで少し考える。そしてまた、ああっと思い出したらしく、声を上げた。
「アイちゃん、すごくね、お料理がうまいわ。ツォハルも言っていたでしょ? だからね、私もびっくりしていたの」
「へえ。食ってみたいな。そんなにうまいのか、御使いがうまいって言うほどなんて、相当じゃないか?」
知らなかった。あたしって、そんなに料理がうまいんだ。自分で作って自分で食べるばかりで、思い出す小さな頃のことは何も言われなかったもの。もしまずければ、殴られていたのかもしれない。
あたしがどんどん、人になっていく。ずっと前のあたしは、こんなこと考えたことがなかった。だって、あたしは普通の人に嫌われるんだもの。でも、コンスタンティアや、アキラや、アザミ、それにシヅルと、ツォハル。みんな、普通じゃなかった。普通じゃない人なら、信じて、遊んで、友達になれる。
「じゃあ、その、月曜、お弁当作る。から。二人分……」
「いいのか?」
アキラは身を乗り出して、嬉しそうだ。
「いいよ。料理、好きだし。食べたいなら、作る」
「あ、ああ。そうか! ありがとう、嬉しいな。てっきり、橘には嫌われていると思っていたから。酷い言い方をしていたからな」
「確かに、やな奴って思ってた。でも、今日の話聞いて、全部わかったから。それくらいなら、あたしは喜ばせてあげたいって思わせる力のある話だったから」
アキラはあたしから視線をそらして、口元を緩ませる。最初、体育倉庫で話をした時、別れ際の目を思い出した。アキラは最初から、あたしのことを、橘家と灰淵家の関係ではなく、ちがう目であたしを見守っていてくれていたんだ。
「た、楽しみにしている。月曜日の昼、橘の教室まで行くよ」
「うん、わかった」
シヅルが学校に来るのは、金曜日からだ。シヅルが来る時は、シヅルのぶんも作ってあげよう。あたしができることで、誰かが喜んでくれるなら。
「じゃあ、まあ、灰淵から話せることはもう、ない。送っていく」
座布団から立ち上がるアキラと、それどころじゃなくて残された羊羹。
「アキラから話せることはある?」
はっとして、また目線を逸らして、おずおずと座布団に戻った。
「本当に、今まで、すまなかったな。できれば、この先どうなるかわからないが、友人として付き合っていければいいと、思っている。過去にも灰淵と橘が親友になっているという記録があってだな、やっぱり惹かれやすいらしい、んだ」
「ふうん。そう。友達になりたいの? ほんとに?」
いたずらっぽく笑ってみせる。アキラが、あたしをどんな目で見ていたか、隠そうとはしていたけれど、場面場面、思い出せばはっとさせられることがあった。
「言わせるか?」
「別に脅してるわけじゃ、ないけど、たぶん、いまを逃したらチャンスってなかなかないよ。それにいつだって答えは変わらないよ。わかるでしょ?」
少しの間。男と女の呼吸だけが聞こえている。目の前の男の肺を制圧している死の匂いは、きっと血管に乗って全身を回っているはずなのだから。
「……体育倉庫で、明るいところで、近くで、見たとき、なんて可愛らしい女の子なんだと思った。横に座るといい匂いがして、汗と血の臭いがする自分とは違うんだと思った。オレは……」
短い黒髪、高い背、伸びた長い手足には女とは思えないほど筋肉質で、頼もしい。ハスキーな声、つり上がってぱっちりとした黒い目が、たまに赤く輝くのを知っている。
「うん。そうなんだ。あたし、可愛い?」
「すごく、その。こんな事をいきなり言われて困るのは理解しているが」
「あたしは覚悟してるよ」
あたしの掌で、そんな存在が震えているようだ。それを見ると、なんだか可愛らしく見えてくる。こんなにしっかりした男の子なのに、と。
「好きだった。橘、お前のことが」
「そう。ありがとうね」
手を伸ばして、アキラの大きな手に絡みつける。握手。アキラはまっすぐあたしを見て、でも涙目で、大きく頷いた。好きだったと表現し、言葉にしたアキラは、きちんとあたしのことを理解してくれている。それはアキラがあたしを本当に、今、好きだということ。
「あたしのクラス知ってるよね」
「もちろん」
「ごめんね。あたしは。まだ、子供だから。でも、友達ならなれる、アキラがあたしの事を本当に、考えてくれてることがわかるから」
それが愛情なら、あたしの肺はアキラの吐いた息で満たされているのだろう。そして全身を巡っていくんだ、それからあたしは愛を知っていく。たくさんの人ではない人から。
「オレはとにかく、拒否されなかったことが嬉しい。拒否されて、罵倒されて、出て行かれると思っていたから。でも、その、オレの気持ちや気を使ったことを理解してくれたなら、お前は子供なんかじゃない。まだオレだって大人じゃないけど。子供と大人の、その間に、正しい年齢にいられていると思う。なんというか、周りが幼すぎ、る、んだ」
「それってあたしたちが大人すぎるのかな?」
「そうかもしれない。正しい人生、なんて。言えばいいのかわからないけれど、オレたちは正しく生きられていないから、正しく生きてきた周りの奴らと違ってくるのは仕方がないと思う」
あたしも死を見たことがある。脳みそがぐらぐら揺れて、ぼろぼろでケロイドまみれの背中をフローリングに押し付けていた。あたしの顔を覗き込む緑の女。部屋には血が飛び散っている。
アキラも死をみたことがある。兄弟で、短刀で腹を切り合う。それを繰り返して、定められた使命をこなすために。
「今更、正しい人生をなんてできやしないけど、生きてる間、正しい人生の存在を理解した瞬間、できるだけそこに寄っていきたかったんだ。そして周りがとたんに憎く見える。だから、ひとりぼっちになる」
「すごくわかるよ。なんであたしだけが、こんなに惨めで、身を隠すように、おどおどして生きていかなきゃいけないんだって。あたしは望まれて産まれてきたはずでしょ? アキラは望まれて産まれてきたけれど、その望まれ方が歪んでいたんだね」
皆の犠牲になる、そして笑って生きている人々が憎い。親が嫌いなんだ、最悪、あのババアったらテスト悪かったからお小遣い減らすって! なんて。そんな話だって羨ましい。母親をババアと罵倒できる幸せ、お小遣いを貰える幸せすらあたしにはなかったのに。
ふらつく足で、重い足で、公園のブランコにたどり着いて日が落ちるまで影を見ているだけの放課後。思考が止まるんだ。うちに帰ったら今日は何が起きるんだろう。ごはんにありつけて、おとなしく布団に潜り込めたならそれが一番いいけれど。
「その間、正しい人生を送っている奴らは遊んで、勉強して、幸せのための足場を固めていくんだな。オレたちは片足でぐらぐらと細い橋に立ってるみたいだ……」
まだ手は離していない。アキラが離さない。あたしも、それなら離さない。じんわりとした手汗がお互いの手の中で混じっていく。
それからそのまま立ち上がる。
「歩いて、送って行こう。近いし、わざわざ車を出すものでもない」
「そうだね、ありがと」
あたしは一旦手を離して、短刀の包みを鞄にしまった。あたしの刃を、アキラの気持ちを、あたしはずっと持っておく。アザミの命、アキラの刃を。力強い意思とあたしへの思いやりを。あたしは折れない、あたしはたくさんの愛を受け取っていることを知ったから。それを抱えたまま、倒れたくないから。倒れそうになったら、愛してくれる人が支えてくれることがわかるから。それが愛で、あたしだから。
また、手を絡ませて、アキラの部屋を出て長い廊下を歩く。さっきの妙齢の女性、お手伝いさんがびっくりしながらも、おじぎをした。
「アキラ坊っちゃま、行ってらっしゃいませ」
「ああ。すぐ戻る。部屋の片付けはオレがやるからしなくていいぜ」
「かしこまりました」
あたしもアキラも、その女性に笑いかけてみる。あたしはからかうみたいにして。どう思ったかな、なんて想像しながら。
男と女として見えたなら、アキラの願いを叶えられたなら。
 リムジンの中はずっと沈黙が流れていて、あたしのアパートの前にきっちり止まってぞっとした。遊びたい、遊びたいけど、あたしにのしかかった命の責任、アザミと、仮面ライダーの男の子。聞かなければいけない話があるのなら。
「荷物、おろして戻ってくる。シヅルはおじいちゃんとこに帰して」
 ぱち、と目を開けたアキラは、その言葉を待っていたかのようだった。
「そうか。じゃあオレが……」
 と、アキラが荷物をシヅルから受け取ろうとしたけれど、シヅルはぎゅっと握って、そのまま車を降りた。
「僕らが買ったものなので。僕らがやります。僕も話を聞くべきでしょうけど……」
「そうか。悪かった。シヅルには後で話そう。まずこの地でもう少しゆっくりしたほうがいい、さぞ、東京で疲れたろうから」
「そ、そうですね……」
 シヅルといっしょにリムジンを降りて、アパートの鍵を開ける。そして玄関に荷物を置いた。いまから遊ぶはずだったけど、今日は土曜日だから。
「シヅル。明日、またうちおいでよ。一回寝て、気分すっきりさせたほうがいいって、こんな気分じゃ、やっぱり遊べない」
 シヅルも頷く。
「そうだよね。僕もツォハルと一緒に考えてみる。きっとツォハルは賢いから何かいいアドバイスをくれると思うし」
 アパートの鍵を閉める。白いおもちゃ屋の袋。
「じゃ、携帯持ってるでしょ? 番号交換しとこ。あたしの番号はこれだから……」
 鞄からお出かけセットのひとつ、メモ帳とペンを取り出して、サラサラっとあたしの電話番号を渡す。
「夜くらいに、一回かけてきて」
「わかった、ありがと」
 そのメモをポケットに入れ、リムジンに戻った。リムジンはおじいちゃんの家に止まってシヅルを下ろしたあと、また五分ほど走って止まる。うちの家からは遠くない、後ろに山が見える大きな、日本の屋敷。まるで武家屋敷の、ような。ずっと右の方には『灰淵剣道場』とあって、そちらにも大きな建て物が見える。
 アキラが降りて、あたしも降りた。リムジンは敷地内へ入っていく。
「今うちの両親は道場で、夜までそっちだ。だから、緊張しなくていい」
「そ、そ、そう……」
 おじいちゃんのうちよりは、玄関は小さい。橘がこの地を守り、灰淵は狂った橘を殺し、揉消す。
 玄関に入ると、お手伝いさんなのか、妙齢の女性がおじきをした。
「アキラ坊っちゃま、おかえりなさいませ」
「ああ。ありがとう。オレの部屋に飲みものとなんか、甘いものでも、二人分持ってきてくれるか」
「かしこまりました」
 またおじぎをして、その女性は去っていく。……アキラ坊っちゃま。お手伝いさんなら洗濯物だってするだろうし、アキラの性別がなんなのか、わかってると思うけれど。
 アキラは靴を脱いで並べ、あたしにこっちへと手招きした。急いであたしも靴を脱いで、人様のお家なので綺麗に並べておじゃましますも言ってアキラについていく。

 ずっとずっと廊下が続いていて、中から庭が見えていた。日本庭園。鯉の跳ねる音。その奥に襖があって、そこを開くアキラ。アキラの部屋には勉強机はなく、座卓と赤い座布団が並んでいて、押入れからもう一つ座布団を引っ張りだし、向かい側に置いた。
 座卓にはペン立てやライト、参考書とノートが積まれていて、それを横にどかす。
「座んな」
 アキラはあぐらをかき、あたしは正座した。その時、襖の奥から声がする。さっきの妙齢の女性だ。
「アキラ坊っちゃま、よろしいですか?」
「ああ、持ってきてくれたんだろ。入ってくれ」
 襖が開き、お盆の上にお茶と羊羹。おじぎをしてそれを座卓に置き、またおじぎをして帰っていく。
 女性の足音が遠くなると、アキラはお茶を一口飲み、ふうっと息を吐いた。
「さて、どこから話したもんかな。どうやら橘は何にも知らないようだし、ま、オレのおさらいも兼ねて、最初から話すとするか」
 そう言ったアキラは押入れから古いノート、色あせたノートを取り出して開いた。ノートの題名には、『大和』と書いてある。
「オレのうちではまず、歴史の勉強をさせられるんだ。これはオレの兄貴のノートさ。オレの勉強に大変参考になった」
 丁寧な字、読みやすいように行間も空けて、赤いペンで深泥池について、と見出しがある。
「よし。そうだな、深泥池は実に古い池だ。氷河期からあるもんでな。あそこの動植物はみーんな、天然記念物扱い。この地に人が住み始めるんだが、おまえのご先祖に死の匂いを……、そうだな、シヅルやお前と同じくらい強烈なのを持つ人間が産まれ、その人間はその力を使って、戦争なんかからこの地を守った。悪霊がいるとかいう話もあって、実際にいくつも深泥池で水死体が見つかっていたそうだ。しかし、橘が現れてからは、それはなくなったし、疫病もはやることはなかった。平和だった、んだ。だから橘家はまつられ、神としてこの地を守っていくことになったんだ。しかしいつからか、悪魔や天使に精神をやられて狂う橘の血筋の人間がで始めた。夜な夜な出歩いては、刀を持って住人を殺すんだ。そして橘に仕えていた灰淵家は、強大な悪魔とまじわり、橘の精神を喰らう悪魔を見て、殺す力を得た」
 そのアキラの話に思わずか、コンスタンティアが現れる。
「その、強大な悪魔、って……」
「や、お嬢さん。そうさ、そいつはサタナエルとか言った。悪の象徴で、偉大で、強く、邪悪なもの」
 アキラの目が赤く光る。コンスタンティアは怯えた。悪魔の王様、については、コンスタンティアは良い印象を持っていたようだけれど。
「な、なんてこと。サタナエルは悪魔じゃない、堕天使よ。それも本当に邪悪なの。昔、砂漠の地で天使と人間が交わったことがあったと聞いたわ。その時に生まれたものはネフィリムという化け物で、全てを食らい、共食いして、死んでいったのよ。だから、王様はあたしから子宮を持って行ったの。繰り返してはならない、って」
 その言葉にふっと笑ったアキラ。
「じゃあ、今のオレは人間でも悪魔でもなく、そのネフィリムってやつか」
「そ、それとはまた違うけれど……。でも、どれと言われるのなら……」
 深泥池にいれば平気。深泥池にいれば、あたしとアキラがいても大丈夫。ということは、深泥池をいま守っているのは……。
「あたしのおじいちゃんも、コンスタンティアやツォハルみたいに何かがいる?」
 アキラは頷く。
「ああ、そうだ。だが、もう歳だろう。二人いた娘はそのしきたりを嫌って深泥池を出た。そして、狂った。お前の母親も、シヅルの母親も、だ。全ての邪悪から守る神聖な力さ。そこから死の匂いを持って出たら当然そうなる。が、じいさんの力も弱まり始めて、自殺者がちらほら出ている」
「じゃあ、あたしかシヅルが、おじいちゃんを継がなきゃいけない」
「そうなるな。じきに、じいさんから話が来るだろう」
 全ての邪悪から守る神聖な力。あたしとコンスタンティアがやるとするなら、それはコンスタンティアに可能なのだろうか。シヅルとツォハルならできそうだけれど、でも、あたしの背中にはいくつもの命がある。シヅルに押し付けたくない、あたしがやらなくてはいけない。でもそのためには、きっとコンスタンティアと別れなければいけない……。
「これは、言わないほうがいいかもしれないが、どうしてもオレが伝えておきたいので、言うことだ」
 アキラは話を変えた。少し暗い表情になって、ノートをとじ、名前を指でなぞる。
「オレには兄貴がいたと、さっき言ったろ。ヤマト、って言う兄貴がいた。灰淵は悪魔の血を維持するために、何世代かごとに近親相姦する決まりでな、ま、世間的に悪いんで結婚は普通の人間とする。オレは母親とは血は繋がっていない。オレと兄貴を産んだのは、オレの親父の妹だ。悪魔の血もあってか、もともと灰淵ってのは寿命が短くて今の医療をフルに使っても六十も生きれりゃ大したもんだ。が、近親相姦、それも兄と妹ならだいたい、まあ、今までの記録からして、三十くらいか。寿命は」
 兄貴が居た。寿命を極端に縮める悪魔の血。
「兄貴は死んだ。二十四で死んだ。お前と、シヅルの母親の悪魔を殺して死んだ。立派だった。オレは兄貴を誇りに思っている。悪魔の血に身体が支配されて、身体中がまるで呪いみたいに黒く染まって、黒い燃えかすみたいに、燃え尽きるように死ぬんだ。そして、オレもな」
 ノートに挟んであった、写真を見せてきた。そこには真っ黒な骨がうつっている。古いものだった。これはアキラの兄の、ヤマトではない。
「悪魔の血を身に流すってことは、こういうことなのさ。人のいのちをじわじわ喰らい尽くして、それが終われば、こうなる」
「橘に悪魔の血を流したら、どうなる?」
 純粋な疑問だった。アキラは腕を組んで。
「まあ、大丈夫なんじゃないか。と、いうか、だからこそ死の匂いをまとわせているんだよ。アイとシヅルが交わったらどんな子が産まれるのか……」
「人のことをそんな、犬とか猫の品種改良みたいに言わないでよ!」
 思わず放った言葉に、アキラは苦い顔をする。アキラも、兄のヤマトもその、品種改良の末に生まれた人間なのに。しかし嫌味を言うこともなく、アキラの顔は、いつも挑発的な表情をしているのに、暗くなる。大和、の文字をまた見つめる。
「どうして、橘にこんな話をしたくなるのかわからないし、なぜかと言われたら死の匂いの関係なんだろうが。オレは小さい頃から自分の性別に疑問を持っていたんだ。遊ぶのは兄貴とばかりだったし、兄貴が好きだったし、兄貴に近づきたいという気持ちもあったしな。だから、兄貴が灰淵を継いで、オレは学校を卒業したら、男になる手術を受けるつもりだった。それをずっと目標にして、生きてきたのさ。どうせ短い寿命だ、好きな性別で生きることに両親は賛成してくれた」
 しかし、アキラの兄はもういない。
「だが、兄貴に子供がなかなかできなくてな。そのまま死んだ。だから灰淵を継ぐのはオレで、しかも、後継ぎを産まなきゃならねえ。女として。そうしたら、オレは男になって、好きな女性と暮らしていいらしい。検査をしたら、オレは、ちゃんと子が産める身体だった」
 あたしは震えた。なんて、なんて、恐ろしいことなのだろう。アキラは男だ。本人がそう主張している。ただ、子が産める男だ。それがとても辛くて悲しくて酷いことだということが、じわじわとあたしを痛めつける。あたしの母親たちが深泥池を離れなければ、ヤマトは死ななかったかもしれない。アキラに対して、嫌な気持ちしか抱いたことがなかったけれど。思わず、ノートの文字を触れるアキラに、あたしは手を触れた。
「ごめんなさい、アキラ。あたしの家のせいで、本当に辛い思いを……」
「はは。アイとシヅルのほうが、辛いだろ。一回子を産めば、オレは男になれるんだ。少し予定が延びただけさ」
 この話はやめようとばかりに、アキラはノートをどけた。そしてあたしは前々から抱いていた疑問をぶつけてみる。
「……シヅルに何があったか知ってるの?」
「もちろんさ。橘家をずっと監視しているし、警察と連携をとって全て知っている。シヅルはひどい、本当にひどかった。アイもひどかった。あいつは、髪を伸ばしていたろ。それに、まあまあの顔立ちだ」
「そうだけど……」
「シヅルはな、両性なんだ。しかも、完璧な。どちらでもあり、どちらでもない。そんな子供は、物好きによおく、売れるのさ。シヅルは両親に売られていた」
 思考が一瞬固まるのを感じた。男の子にみえる、けれど、でも、それでも、……、服の下は……。
「御使いや、たとえば神様には、両性であったり、男神であるのに子を産むものがいる。まるで、シヅルは、神でないかと、そう思うことがある。そして最初にこの地を守った橘の人間も、男とも女とも子を持てる人間であったらしい」
 両性のシヅル。どちらなのかわからないツォハル。でもどちらも、仕草や言葉遣いは男だ。あたしは自分のことではなく、アキラの運命と、そしてシヅルの過去に、思わず頬を濡らす。コンスタンティアも肩を震わせていた。なんて、なんて酷い血。酷い地なのだろう。

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